檻の中の獣(3)
蛇口を捻ると、きゅっと息が詰まる音がして水が止まる。白い泡ぶくが別れを告げるように爆ぜ、排水溝に吸い込まれていく。洗剤の泡と別れてしまうことが悲しい訳じゃないけれど、シンクに映る自分の顔は奇妙に歪んでいた。
窓格子の先は夕暮れに塗れている。風はなく、時期に来る夕闇の予感が静かに波打つ。陽平は水仕事で冷えた手で頬に触れてみた。涙に濡れてはいないけれど、触れた個所に軽い痛みが奔る。
――これが、母を追い詰めたもの。そして、自分を苦しめているもの。
陽平は頬の痛みを噛み切るようにして耐え、目を閉じて下まぶたの痙攣を抑える。
薄明るく、夕焼けが染み入るまぶたの裏。遠くで電車の音がする。母もあの電車に乗って行ったのだろうか、と陽平は静かに電車の音を聴き入った。この街に通る唯一の路線。あまり利用したことはないけれど、あれに乗ればどこにでも行けるのだろう。
――母の元にも、いけるのだろう。
猛スピードで風を切って進む電車。クリーム色に臙脂のラインが入った車両。どんどんと小さくなる草ヶ丘の街。大きく開いた車窓には、景色が代わる代わる通過する。
田舎っぽい風景から、少しずつ高くなる建物へ。建物は頭を上げるほどの高層ビルに変わる。剣山のように並ぶビル群。その間を散策する人々。その中に、母の姿を見付ける。慌てて電車から降りようとしても、びっちりと閉じたドアは開いてくれない。窓越しに声を張り上げて母のことを呼んでも、走行音にかき消されて声にもならない。電車の速度は増していく。母の姿はとうに見えない。街並みは巻き戻っていく。ビルの高さが徐々に低くなる。川を渡り、牧歌的な風景が広がる。山を駆け上がるようにして建つ住宅。懐かしいのにとても悲しい景色を観て、涙があふれてくる。
死ぬ寸前の獣のような声を上げ、電車はやっと停車する。両端にスライドしたドアの先には――
真っ暗な地下壕への入り口。
はっとして、陽平は目を開けた。
思い出してしまった『あの出来事』から逃れるように頭を振る。振っても降っても、瞬きをしたときの瞬間的な暗闇の中に、それを垣間見てしまい消え去らない。濡れた手を拭き、調度品が乱雑する部屋を横切る。物置のような自室に入って勉強机の前に胡坐をかいて、目の前に置かれた大型のライトを注視した。
涼弥が家から持ってきたというキャンプ用の大型ライトを見つめながら、もう何度目だろうか、陽平の全身に悪寒が駆け回った。いくらそれを振り払おうとしても、頭にはあのときの恐ろしい記憶が浮上してくる。横隔膜が震え、吐息が奇妙なうねりとなって吐き出される。
玄関の戸口が叩かれる音で陽平は我に返った。
父親が返ってきたのかと時間を確認してみた。たしか今日は遅番であるはずなので帰宅にはまだ早い時間であると訝りながら、玄関へと赴き木戸を開いて来訪者に対応する。
「あ、大谷」
訪問してきたのは渡辺であった。目をぱちくりとさせ、自分から訪れた癖に、陽平が現れてことに驚いているようであった。
そう言えば、一昨日の夕方にも担任がやって来たこと思い出す。
あのときは、まだ頬の痛みがひどく布団で寝ていたため、仕事が早番であった父親が対応したのが……聞こえてきたやり取りで判断すると、どうやら父は担任を言下に追い出したようであった。それはそうだろう。あのときの自分の頬の青あざを見られたら、どれだけ愚鈍な輩でも暴力の二文字を発想する。それを学校の先生にでも見られでもしたら虐待を疑うに違いない。
そこで、陽平はとっさに頬の痣を手の平で隠した。薄くなったとはいえ、今の自分の頬にも暴力の痕跡が残っているのだ。
「お父さんは、いる?」
不躾に家の中をのぞき込みながら渡辺が言い、戸の陰で顔を隠して陽平は答える。
「今日は、帰りが遅いのでまだいないです。で、なんの用ですか?」
陽平には渡辺の来訪の意が掴めなかった。
――一昨日は学校のプリントを届けに来たようだったけど、昨日は来なかったよな。なのに今日はくるのか?
一昨日の担任は、自分に会おうと必死になっているようにも感じたが、一体どうしてだろうと陽平は思索に耽る。父から受けている暴力のことは、玲しか知らないはずである。いや、あのときの渡辺は何か目的があって自分に会おうとしていたようにも思えた。
――もしかして、玲がバラしたのか? 俺との約束を破って……
目元を僅かに引き攣らせた陽平に渡辺は言った。
「ちょっと話したいことがあるんだけど、家に上げさせてもらってもいいかな?」
相変わらず意図を理解できないまま、陽平は横にずれて渡辺を家に入れる。頬の痣については、ぶつけたとか適当に言い訳をすれば納得するだろうと思った。
そして、渡辺の後にアヒルの子のように続いて家に入ってきた玲たちを見て、陽平は虚を突かれて驚いた。
――こいつらも来ていたのか。
その中に涼弥がいないことを不思議に思い、外にいるのかと戸口から身を乗り出してのぞいてみたが、そこには誰もいなかった。
ごたごたとした机の上を片付け、人数分の座布団を床へ投げた。肉薄な座布団の上に皆が着席したのを確認して、物珍しそうに内装を観察している渡辺に対面して陽平は座った。誰も口を切らなかったので、仕方なく陽平が切り出すことにした。
「それで、話したいことってなんですか?」
渡辺の目が宙を舞う埃を追うように右往左往し、やがて陽平の頬もとで止まる。喉仏を一度上下させて恐る恐るといった体で口を開いた。
「大谷。君はお父さんから虐待を受けているのかい?」
開け放たれた窓から風が吹き込んで、襖が威嚇するような音を立てた。
眼球に力を入れて掠れていく視点を正し、陽平は渡辺の隣に畏まって座っている玲に視線を向ける。そこには、裏切りに対する糾弾の色が籠められていた。
目を合わせようとせずにうつむいた玲を見て、玲が話してしまったのだと陽平は悟った。悟って、刹那の間だけ放心した。やがて陽平は殊勝な顔になるよう意識して渡辺に言った。
「先生。虐待というのは親から一方的な暴力を受けていることを言うんですか?」
渡辺は陽平の意図を図りかねるように、「そう、だけど……」とどう出ればいいのか分からないといった反応を示した。
「なら、俺は虐待なんか受けていませんよ」
渡辺が間抜けな声を出して驚き、隣の玲に「どういうこと?」と小声で尋ねた。顔を伏せた玲は、泣き笑いのような混沌とした表情で担任を見つめ返していた。
先ほどから浩次と実は、だんまりを決め込んでいるかのように口を開かなかったが、陽平の口述を聞いた彼らの顔に愁いの影が差した。
「たしかに、父から暴力に近いものを受けるときもあります。けど、俺はしつけの一環だと思っています」
担任は玲が嘘を吐いたのだと思ったのかもしれない。「そうか」と頷き、居住まいを正した。これ以上何か話があるのだろうかと陽平は、はてなと思う。まるでこれから話すことが本題であるかのような、そのような雰囲気であった。
「市川のことはまだ知らないよね?」
陽平は目を剥く。この場に涼弥がいないことを不思議には思っていたが、まさか、話の本題がそれであるとは思わなかったようだ。
「何か、あったんですか」
得体のしれない不安を覚えながら渡辺の返答を待った。
「行方不明なんだ」
脳天を揺さぶられ茫然とする陽平に渡辺が言い添える。
「大谷が学校を休んだ次の日から、市川が行方不明になってるんだ。――君たちが草ヶ丘特殊地下壕で遊んでいたことは、ぜんぶ内田たちから聞いた。もちろん、大谷と市川が企んでいた悪戯のことも、だ」
渡辺が何を喋っているのか、陽平はほとんど理解していなかった。ただ、突然目の前に張り出された行方不明の張り紙を唖然と眺めていた。
「それで、内田たちが発見したこと何だけど」
渡辺は乾いた唇を湿らす。
「秘密基地のシートに靴の泥が着いていたらしいんだ。彼らはその跡が市川のものである可能性が高いと言っているんだ。それで、大谷はその跡に何か心当たりはあるかな?」
陽平は二三度瞬きをする。まぶたの裏に、暗闇で襲撃を受けたときの場景が投射され、総身を強張らせた。実が陽平のその身震いを見逃さなかった。
「何かあったんだね、大谷くん」
陽平は一度大きく息を吐いて、あの悪戯を決行した日のことを、洞窟に一人残った後のことを話した。
三日前、秘密基地で行った悪戯。
突然浩次が逃げ去ったことでネタばらしの機会を失った陽平は、一人洞窟に取り残された。予期していた以上の反応を示した浩次と実に、苦笑いを浮かべるしかなかった。今からのこのこと追っていっても中途な結果に終わるだろう。そうなるくらいなら何か新しい、涼弥の度肝を抜くほどの悪戯を新たに企もうと陽平は思った。
――たとえば、このまま本当に行方を晦ませてしまう、とか。
一瞬、とても魅力的な案に感じたけれど、それは現状から逃げているだけだと思い直す。陽平は海賊の人形と祠の間から身を出し、涼弥が置いて行ったライトのもとへ向かった。
暗闇に陽平だけがぽっかりと浮き上がる。
始めてここを訪れたときも一人だったな、としんみりする。突き上げるようなライトの明かりでまぶたが痛くなり、陽平はしゃがみ込んでライトの電源を落とした。
――訪れる暗黒。
無音。無明。無感動。この世界のすべてのしがらみから解放されたかのような安堵感が陽平を満たした。
陽平は大きく深呼吸をして肺に暗闇を入れ、息を止める。こうして闇と溶け合えば、耐えがたい思いがいくらか和らぐことを彼は知っていた。
音もなく、視界に映るものもない。感じるのは自分の存在と、自分を取り巻く大きな存在。この洞窟、この暗闇には、まるで母体の中に戻ったかのような安心感があった。暗闇に守られているかのように安心し、警戒を解くことができた。この場所があったからこそ、陽平は今まで父からの暴力に耐えてこられた。
そんな安心感に浸っていた矢先、胸がむかつくような不穏が彼を襲った。それはまるで、気味の悪い何者かが羊水に荒波を立て、安らかな時を妨害されたかのような気持ち悪さであった。
陽平がライトを点けようとすると――
頭上に何か大きなものが覆いかぶさって来て、陽平は天と地が引っくり返ったかのように動転した。暗い深海に突き落され、上下左右も分からず、必死に海面を目指しているかのような途方もない絶望感。もがき、抗い。渾身の力を振り絞って、身体を捕捉していていた渦潮から飛び出す。
体が軽くなり、ようやく冷静になった脳が危険信号を発した。
――な、何だよ、これっ?!
何が起こったのか確かめようとライトの電源に触れたとき、暗闇の奥で荒々しい猛獣の息遣いが耳に入った。今明かりを点けることは、自分の居場所を教えてしまうようなものだ、と彼は慌てて電源から指を離した。
四足の獣が這いずるような砂利を踏む音。地面を蹂躙し闊歩する気配から、父親の暴力を連想した。
今、安息のこの地を侵す何かが闇のどこかに潜んでいる。それは陽平から居場所を奪おうと、暗闇の中を這って彼の姿を探している。
陽平は音を立てないように壁際に寄り、へばり付くように密着する。胸にあるライトを必死の思いで抱き、息を殺し、ただ暴力がすぎ去ることを祈った。
荒い吐息が何度も彼の傍を通過した。その度に陽平は心臓すら止める勢いで気配を殺し震えた。蠢く気配は内部を周回し、やがて出入り口へと通じる通路の方へ向かっていった。それは十五分ほどの出来事であったが、彼には、暴力に耐えてきた四年の日々と同等の長さを感じさせた。
突き付けられた拳銃から解放されたかのように陽平は脱力する。立ち上がろうとして、腰が抜けてしまったことに気が付き、壁にもたれるようにして立ち上がった。
先ほどのあれは一体何であったのか、と頭では考えようとするのだけれど、反して体中に古傷が疼くようなじくじくとした痛みが広がり、それをさせなかった。
気配が消えてからも、しばらくの間陽平は警戒してその場に留まった。ライトを点けようとはせず、息を潜め感覚を研ぎ澄ましていた。それが幸いした。
本棚の物影にうずくまっていると、もう一度何者かが息を切らせ駆け込んできた。
さっきのやつがまた戻ってきたんだ! と陽平は怯えた。その気配は何かを探すかのようにシートに上がり、やがて出て行った。いつ、あの何かがまたやってくるとも分からなかったので、その後も陽平はその場から動こうとはしなかった。
彼が洞窟から抜け出したとき、辺りはもう完全な夜であった。真っ暗な緑地を滑るようにして駆け抜け、陽平は家に帰った。
家に帰り、出迎えたのは泥酔した父だった。
父は帰りが遅かったことに激怒し、頬を殴った。
頬に熱がさした。どこか切ってしまったのか口の中に血の味が広がる。三和土に横倒しになり痛みに悶える姿を見て、父もさすがにやりすぎたと思ったのか、真っ赤だった顔がみるみると青ざめていった。
結局、この人も不器用なのだと彼は思った。
母が家を去ってから、何だかんだ父にも感じるものがあったのだろう。時間が経つにつれてあからさまな暴力の頻度は減った。それでも、稀に殴られるようなことはあったが、大体において自分が何か悪いことをしたときであったので、本人はしつけのつもりだったのかもしれない。父も父なりに後悔しているのだろう。口下手な父は、言葉で感情を表現することが苦手なのだ。そう思ってやらなければ、彼はいつまでも浮かばれない。
玲たちは目を瞬かせながら聞き入り、渡辺も息を飲んでいた。
「そいつが市川を――」
浩次がその次の言葉を継ぐことはなかった。
「それで、大谷は一昨日の夜、秘密基地を訪れたりはしたかな?」
陽平は首をぶるぶると横に振る。
涼弥の行方不明も衝撃的であったが、自分を襲ったあの何かが涼弥を襲ったのかと思うと、陽平は居た堪れなくなり今すぐ家を飛び出して涼弥を探しに行きたい気持ちに駆られた。腰を浮かしかけた陽平の機先を制するように、「あと、とても大事なこと何だけど」と渡辺が殊更大事そうに口を開いた。
「大谷はその襲ってきた人物に心当たりはあるかな?」
「……ない、です」
暗く沈鬱な錘を頭の上に乗せているかのような重圧が、陽平の全身に伸し掛かって身も心も遥か地中へと埋没させた。
日がさらに西へと傾き、室内にいる五人の影が伸びる。気温が下がったのか、実が両肘を抱えて寒そうに手で擦っていたのを見て、陽平は台所の小窓を閉めに重い体を持ち上げた。
冷気が窓格子の間を抜け、部屋に這い入ろうとしているように冷え切った風を吹き込ませている。陽平はその風に小さなため息を紛れさせる。
――涼弥が行方不明になっているなんて、思いもよらなかった。
しかも自分を急襲した何ものかに危害を加えられている可能性が濃厚であるという、追い打ちをかけるかのように絶望的な展開。あの生き物の本能に従順で野性的な殺意を想起して、彼は寒気に体を震わせた。
くしゅん、と誰かが子どものようなクシャミをした。
窓を閉めて振り返ると、クシャミの主は玲だったらしく恥ずかしそうに鼻の頭を擦っていた。
陽平は座布団の上に戻り、まだ顔を合せようとしない玲を見つめた。
実も浩次も重い表情だった。もうこれ以上の進捗はなさそうだ、と渡辺が腰を上げた。玄関先に立った渡辺が室内にいる陽平に言った。
「市川は、その変質者に襲われた可能性があると学校に進言しておくよ」
陽平は頷き、「よろしくお願いします」と口にする。
「任せておきなさい」
渡辺はそう言い、玲たちを連れて家を後にしようとした去り際、「市川のライトが何か証拠になるかもしれない」と言い出した。
「警察に連絡することになると思うから、あのライトは証拠として学校側で預かっておくよ」
陽平は自室に取って返し、涼弥のライトを渡辺に託した。