檻の中の獣(2)
そこで玲は口を一文字につぐんだ。
陽平の境遇は衝撃的であったが、どこか予想の範囲内であった。
自分たちは、心のどこかに傷を負っている。だから、所謂、問題を起こすような生徒なのだ。傷の痛みを紛らわすために、その苦痛の発露を世界に求めているのだ。
陽平はその苦痛に耐えている。強くなるために、理不尽な世界に反抗するために。だから、自分の苦難を玲に口止めをしていたのだろう。
実は鼻を大きく啜った。横に座る浩次が、拳が白くなるくらい強く手を握り締めて言った。
「どうして大谷は認めようとしないんだ?」
浩次がそう尋ねても、玲は一直線の唇を開けようとしなかった。その痛切な表情は、今にも倒れてしまいそうな石柱を思わせた。
大事な支えを失った柱が、風に吹かれて斜めに傾げ、それでも倒れまいと踏ん張っている。それを見ていたら、これ以上玲に口を開かせることは残酷な仕打ちのように感じて、実は浩次に向けて小さく首を振る。浩次はその仕草を読み取ってくれ、それ以上尋ねようとはしなかった。
三人だけの教室に沈黙が続いた。時計の秒針が神経質な家庭教師のように規則正しく秒数を細かく区切る。このまま何もせずにいたら、あの秒針は大切な繋がりをも細かく刻んでしまうのではないかという強迫観念が実を襲う。
「大谷くんの家に行かないと、涼弥くんの手掛かりも掴めないよね」
前に座る玲は、自嘲的な笑みを浮かべる。
「陽平の父親は、ボクらを陽平に会わせてくれるだろうか?」
そう。もし陽平が虐待による何らかの外傷を負ったことで、学校を欠席しているのなら、彼の父親は陽平への面会を拒むだろう。現実的な問題を突き付けられ、自分たちの力量を思い知って絶望した。自分たち三人で陽平の家に行ったところで陽平の父に邪険に追い払われるに違いない。子どもにできること何て所詮たかが知れていているのだと、突き付けられた気分になる。
「どうしよう……」
知らず知らずの内に実は弱音をこぼしていた。
「大谷の親父はいつも家にいるのか?」
浩次が玲に尋ねる。
「分からない。さすがに仕事はしていると思うけれど……」
していたとしても、それが何時頃なのか分からない。三人は自分たちの無力さに打ちひしがれるように黙った。
涼弥ならこのような行き詰ったとき、にやり、と逆境を楽しむように笑って思いもしない妙策を口にするのだろう。涼弥と自分は違うのは分かっているけれど、いなくなって何度も涼弥の偉大さを痛感した。
「僕たちだけじゃ、だめなのかな……」
「ボクたちだけ……」
玲はオウムのように繰り返して呟き、勢いよく顔を上げた。
「一人だけ、頼れる人がいるかもしれない」
「誰だよ?」
浩次が語気を強めて聞いた。
「担任の渡辺だよ。彼は陽平が虐待を受けていることを知っていると思う」
「どうして、分かるんだよ」
「陽平が学校を休んだ日、彼は陽平に直接プリントを渡そうとしたんだ。それも、拒む陽平の父親を相手に必死な様子で喰らいついていた」
「それだけで、あいつが虐待について知ってるっていえるか?」
「断言はできないけれど、プリント何て直接渡さなくても構わないだろう。なのに、渡辺は直接会って陽平に渡したいと言ったんだ。虐待について知っていたからこそ、そうしたと考えられないこともないだろう」
それは――ありえるだろう。
現場をこの目で見た訳ではないが、玲の話を聞くに、あの頼りない渡辺がそこまでするには何らかの理由があると思う。
「あいつは虐待についていつ知ったんだよ」
浩次はここにいないはずの担任を責め立てるように言った。
「それは……分からない。ずっと前から知っていたのかもしれないし、家庭を見て直感で悟ったのかもしれない。――それでも、現状を理解していてボクたちが頼ることのできる大人は彼しか思い当たらない」
自分たちを迫害する教師たちに頼ることは、一種のタブーのように思え、実は複雑な想いに駆られた。浩次の表情も苦いものに変わる。
けれど、どのような手段を取ろうとも、実には玲が口にしたその希望にしがみ付くしかないように思えた。どのようなものでも、今すぐ陽平を救い出し、涼弥の手掛かりを掴むことが最も重要なはずであったから、
「行こう、職員室に」
そう言って実は椅子から腰を上げた。
教室を後にして一階の職員室へ向かう。階段を下りながら一つ懸念があったので実はそれを口にした。
「今、涼弥くんのことで手いっぱいになってて、すぐには対処してくれないかもしれないよね」
その質問に二人とも答えることはなかった。恐らく、同じ不安を抱いているのだろう。
職員室のドアを開けると、厳かな視線が一斉射撃のように実たちを射抜いた。教員たちの面持ちはどこか物々しく、やはり涼弥の行方不明がこのような沈鬱な雰囲気にさせているようであった。実は担任の渡辺の姿を探す。職員室を訪れたことなど数えるほどしかないため、どのように席順が決められているのか見当もつかなかった。加えて、教員たちの鋭い視線が入室させるのを尻込みさせた。
玲は数々の視線を物ともしない様子で室内に踏み込み、教師たちと反目した。
玲の眼力に数名の教師が気圧され、視線を逸らす。乱れた視線の海を渡航するように玲は職員室の奥へと進行する。実と浩次は、毅然と進む玲の後ろに従者のように着いていくことしかできなかった。
「渡辺先生」
玲が窓側の一番奥の席に頭を垂れて座っていた渡辺に声を掛けた。渡辺は寝ぼけたような顔を寄越し、訪問者が彼らであると気付いて眉を上げた。
「あ、あれ? どうした?」
「ちょっと。相談したいことがあります」
玲はそう言って、こちらへ奇異な目を向けていた他の教師たちに侮蔑の籠った視線を返した。渡辺の隣席の仏像のような教師が何かを言おうとしたが、玲に睨まれて怯み、その図体を萎縮させる姿は滑稽としか言いようがなかった。
「できれば、静かなところで話をしたいのですけれど……」
教師全員への流布を避けたのは、陽平のことを思った玲なりの配慮だったのかもしれない。
「えっと、じゃあ――応接室にでも行こうか」
三人は職員室に隣接する応接室へと連れて行かれた。応接室というものを一教師が好きなときに使ってもいいのかどうか、という疑問を持ったが深く考えないことにした。
蛍光灯を照り返して黒光りする重厚なソファーに腰を掛ける。二人掛けのものなのに三人座ってもまだゆったりとくつろげる空間があった。
ソファーに身を預けると、秘密基地にあるおんぼろとは比べ物にならないほど柔らかく、座ると実たちの身が十センチほど沈み込んだ。実には、この肉厚ソファーと秘密基地にある雑巾のようなソファーが、同じ用途で使用されるものとはと到底思えなかった。
壁には歴代の校長の写真が額縁に入れられ、実たちを見下ろしている。写真とはいえ、その眼差しには校長になるだけの威厳が見て取れた。圧巻されて身を竦ませていると、長方形の卓子を挟んだ向かい側のソファーに担任の渡辺が腰を落とした。
「それで、三人揃って何のようだい?」
「陽平――大谷陽平が父親から『暴力』を受けている件についてです」
玲は敢えて「暴力」という言葉を強めて発音した。そうすることで、渡辺が陽平の虐待について存知であるのか探る腹積もりのようだった。
知っていれば、自分たちの来訪の意図がすぐに掴めてスムーズに事が進むだろうし、たとえ不知だったとしても、自分が受け持つ生徒が虐待を受けていると聞けば、教師として何もせずにはいられないだろう。
渡辺は「ああ」と声をもらし、眉をしかめ懊悩に苦しんでいるかのように表情を歪めた。その苦悶顔は、前々からそのことで悩んでいたかのような表情で、渡辺先生は知っていたんだ、と実は心中でにわかに安堵した。
話の進行はもっとも状況を理解している玲に任せて、実は聞くことに徹する。
「市川君のことで混乱していて手が回らないのは、重々に承知しているつもりです。ボクたちも、先生方と一緒で市川君のことが心配だという気持ちは変わりません」
玲が一呼吸置く。頭の中で話すことをまとめ上げているのだろう。
「市川君の行方について、大谷君が何か知っている可能性があるんです」
渡辺は大きく息を飲み、小さな瞳をカッと瞠目させた。
「く、詳しく聞かせてくれ」
卓に身を乗り出し、その顔は上気しているようにも見えた。
玲が実と浩次それぞれに視線を投げた。どこまで話してしまっていいのだろうか?と意見を求めているようであった。
教師にあの秘密基地のことを話してしまえば、もう二度とあそこへの出入りは禁じられるだろう。もちろん、罰も受ける。話してしまったことに涼弥や陽平は烈火の如く怒るかもしれない。けれど、いくら怒られようと、ケンカしようと、二人が無事に戻ってきてくれるのなら、また笑い合える。実はそう思い「ぜんぶ」と囁いた。浩次も同意して二重あごを引いた。玲は「分かった」と小声で言い、正面へ向き直る。
「渡辺先生。これからボクが話すことを怒らずに最後まで聞いてください」
渡辺は神妙に頷く。その額には緊張の所為か、脂汗が滲んでいた。
「ボクたちは、一ヵ月ほど前に草ヶ丘特殊地下壕の入り口を発見しました」
正しくは、陽平が元々知っていてそれを教えてもらったのだけれど、そこは省いたようだ。
それを聞いて渡辺はソファーから引っくり返るくらい仰天すると思った。しかし、意外にも渡辺は沈着な様相だった。実たちならそれくらいのことをしていてもおかしくない、とある程度の予測を立てていたのかもしれない。
玲がそれ以後の出来事を要約しながら話す。
地下壕を秘密基地として利用したこと。三日前に涼弥と陽平がある悪戯を企て、実行したこと。そのときに陽平の姿が見られなくなったこと。その翌日、陽平が学校を休み、さらに涼弥が行方不明になったこと。昨日、涼弥の行方の手掛かりを探しに地下壕へ赴いて靴の跡を発見したこと。
「その足跡の詳細を大谷君が知っている可能性があります」
渡辺は腕組みをし、「靴跡……」と口の中で呟いた。腕の中で人差し指が一定のリズムで落ち着きなく上下している。
「内田は、大谷が父親から暴力を受けているっていうのは、いつ知ったんだ?」
「知ったのは、二年生のときです」
玲が苦々しく答えたのを聞いて、渡辺は眉間に切り傷のような皺を寄せる。あの無頓着の塊のような渡辺もこのような表情を――自分の受け持つ生徒が虐待を受けていることを、どう対処したものかと悩んでいる顔を――するのか、と感心にも近いものを抱いた実は、ふっと突っかかりを覚えた。
それは、日常におけるちょっとした違和感のように他愛もないものであった。友達の声が少しだけ掠れていて風邪っぽいとか、昨晩親に叱られたのか今日はどこかつっけんどんな態度であるとか。ほんの些細な心情の違いのようなのだが、人の視線に、感情を向けられることに人一倍敏感な実だからだろうか、渡辺が浮かべる苦悩の顔から、どこか嘘っぽさを見出した。
浩次は話に聞き入っているようだった。玲も、話すことに精一杯でその不自然さには気付いていない。
うーん、と渡辺は瞑目して唸り声を上げた。
――渡辺先生は、本当に大谷君の虐待について知っていたのだろうか?
そのような疑惑を抱き始めた矢先、渡辺は屈伸するようにしてソファーから立ち上がった。
「今から私が大谷の家に行って話を聞いてくるよ。お前たちは、もう遅いし家に帰りなさい」
そう言って部屋を出て行こうとするのを玲が慌てて引き留める。
「ボクたちも、一緒に行っちゃだめですか?」
応接室のドアを開けようとした渡辺の動きが止まる。潤滑油の切れた歯車のように振り返った渡辺の口から出たのは、普段の気弱さが排斥された命令調のものであった。
「君たちは、家に帰りなさい」
その顔は鬼気迫るもので、玲と浩次は面を食らったようで二の句を継ぐことができなかった。実だけは胸に溜まった疑念の真偽を知りたいと、一人食い下がった。
「先生ひとりで行ってどうにかなるんですか? この前だって、大谷くんのお父さんに対応しても、何もできずに追い出されたそうじゃないですか」
この渡辺に対する不審も、人の注目を嘲りだと変換してしまう自分が身勝手にも疑っているだけなのではないか、と確証なさに不安を抱きながら渡辺の出方をうかがう。
実の言葉を受けた渡辺の顔が、痛点を突かれたのかのように苦々しいものに変わっていったことで、渡辺は知ったかぶりをしていたと当たりを付け、畳みかけるようにして実は続ける。
「大人数で押しかければ、大谷くんのお父さんの対応も変わると思うんです」
「いや――子どもの人数が増えたからといって、それは変わらないだろう。なにかあったら危ないし、私だけで行くよ」
中々折れようとしない渡辺にこのままでは押し切られてしまう。焦りを感じ始めた実は、そもそもどうして渡辺は頑なに一人で行こうとしているのか、その理由に思い当たった。
――渡辺先生は、自分のクラスの生徒が虐待を受けていることを、他の先生に知られたくないんだ。だから、事を荒げないようにできるだけ穏便に、一人でこの問題を片付けたいんだ!
それには、渡辺が自分たちの担任であることが根深く関係しているのかもしれない。
実は、自分たち――問題児五人組のクラスを、半ば押し付けられるような形で渡辺が担任を任されたと風の噂で聞いたことがあった。問題児五人を背負わされた渡辺には、他の教師たちの目が鋭く光っているのだろう。ただでさえ何を起こすか分からない、爆弾のような自分たちが仕出かしたことの責任を負うのは、多くの場合その担任だ。彼らが問題を起こす度に監督不行を咎められる渡辺は、生徒が起こす問題ごとに過敏になっている。できることなら、内々に自分だけで処理したく思っているのだ。
その憶測が正しいものなのか確かめるために、実は鎌をかけてみることにした。
「それなら、他の先生にも声をかけて一緒に来てもらえれば、危険は少なくなるので、僕たちも行っていいですよね」
渡辺の一挙手一投足を見逃さないように目を皿にする。目の色、頬の僅かな動き、口元の皺の本数の変化すらも見極めようと、実はすべての視束を渡辺の動作に集中させた。
渡辺は鼻から小さく息を吸い、瞬きを一度した。引きつった頬を笑みに変えて誤魔化し、眉尻を数ミリ上げた。乾いた唇を舌で舐めてから口を開く。
「今、他の先生たちは市川の件で忙しいみたいだから……」
取って付けたようなその言い訳は、上げ足を取るまでもなく自らぼろを出していた。
渡辺は先ほど玲の口から『涼弥の行方に陽平が関係している』と聞いていたはずである。心の底から涼弥のことを心配しているのなら、この涼弥の行方の有力な情報に人員を割くべきで、たとえ他の教師たちが忙しいのだとしてもまずは教師陣に一報を入れるべきなのである。渡辺の様子からは、そうしようとしているようには思えなかった。こうなると、本格的に自分の推測は正しかったのだと実は確信した。
渡辺が秘匿に走る原因を作り出しているのは自分たちなのだと思うと、実は心苦しくもなる。
――だからと言って、ここで引くわけには行かない。やっと掴んだ涼弥くんの手掛かりを離す訳にはいかない!
「大谷くんが、市川くんの手掛かりを握っているかもしれないんですよ?」
この一言が決め手になったのか、渡辺は「仕方ないか」と実たちが着いてくることを了承した。
「でも、他の先生たちは忙しいから私たちだけで行くよ」
あくまでもそこだけは譲らないと顔に張り付け、渡辺は応接室を出た。
実たちは顔を見合わせ、これからが本番だ、と無言で交わして渡辺の後を追った。