檻の中の獣(1)
明日が来れば、その日は今日になってしまうので、明日というものは永遠に来やしないけれど、その明日がやって来た。
朝日が昇れば否が応でも目を覚ますように、洗面台で顔を洗い終えた玲は、自然な動作で正面の鏡を見た。ガラス板に反射する自分の表情は、どこか吹っ切れたようにも、浮かないようにも見えた。要はいつも通りの、何を考えているのか自分でも分からない顔であった。
――彼らに真実を打ち明けることは、あの約束を反故にすることになるのだろう。
あの日から一貫して法律のように心に打ち立てていた誓いを破ってしまうことは、自分自身をどれほど揺るがすのだろうか。それはやってみなければ分からない。
寝間着を脱いで外着へと着替える。これから、あの約束を破ってしまうのだから昔のように振る舞った方がいいのだろうか、という考えがふとよぎったけれど、それはまだ決心がつきそうになかった。
かつて重心を支配していた四角いランドセルは今ではただの四角い箱で、両親に見守られながら嬉しそうに新品のランドセルを肩にかけていたあの子は、今では立派な問題児として扱われている。
――どこで、ずれてしまったのだろう?
時は間断なく流れ、物は寂れて鈍り、人は老いて変わる。
変わらないものってなんだろう、と偶に考えてみることがある。人は着実に死に直進するし、物も劣化の一途をたどる。誓ったものだって、歳月とともに風化してしまう。
――まったく変わらないものって、ないのだろうか?
学校へと向かう玲の足取りは風船のように軽くもあり、漬物石のように重くもあった。要はいつもと通りの、どこへ向かっているのか自分でも分からない足取りであった。
往来する生徒たちは、十人十色の表情をしている。
楽しそうに、怠そうに、辛そうに、泣きそうに。学校へと続く坂道を上っている。
人はみな違うのに、そんなこと誰でも分かっていることなのに、人は集団から外れたものを白い目で、奇異な目で見る。外れたものたちがいけないのか、そのような体制をとる世界がいけないのか。玲には、まだその分別が分からなかったが、自分が間違っているとは思いたくなかった。
いや、間違っていることは理解しているけれど、それを間違いだと認めてしまうことは、彼に対する裏切りであるように思えてしまい、その感情をひた隠しにし、目の前の虚構に共感していただけなのかもしれない。
坂は空へ続いているかのように、ゆるゆると伸びている。
ずっと昔、この坂の上に立ち、手の平からあふれ出しそうなほどのビー玉を転がした少年がいた。 彼の手から離れていくビー玉は、キラキラ、カンカン、キンキンと、好き勝手に坂を転がっていった。
玲はその少年を遠目で見ていた。直後に駆けつけてきた母親に怒られている彼の表情は至福に満ちたもので、今でも記憶にくっきりと跡をつけて残っている。名前も知らない幸せそうな彼を羨望し、坂を好き勝手に転がっていく光の玉のことをとてもうらやましくも思った。
――ボクたちはビー玉には成れないのだろうか? 好きな通りに坂を転がれないのだろうか?
その質問への納得のいく答えが、この長い坂の上にあるとは到底思えなかった。
人生の分岐となる重大な決心をした日であったとしても、それと相乗するようにして運命を左右する劇的な大事件は訪れない。飽くことなく日常は常として存在し、その決断は運命を揺さぶるほど大それたものには成りえない。だから、自分の口から発せられるこの言葉にも、世界を震撼させるほどの力はないのだと、半ば念じるようにして玲はそれを口にする。
「陽平は父親から虐待を受けている」
四年もの間、胸の奥の裏の底に丁寧にたたんでしまい込み、決して開かないと誓った思いをたった一文で要約できてしまったことに、玲は少なからず衝撃を受けた。
言葉にすることは何よりも簡単で楽だった。覚悟を決めれば呆気なく、息を吐くのと同じくらい無意識に口を開閉させれば言葉が出た。それだけ、日々そのことについて考えていたからだと言えるかもしれない。
――そこへ乗せられなかった四年分の思いは、どうやって表現すればいいのだろう?
自分が懸命に守ってきたものはたった一文程度の価値しかなかったのか、と口にしてそのような感想も持った。
浩次と実が息を飲んだのが、その表情から易々とうかがうことができた。
これ以上、何を話せばいいのだろう。あの一文にすべてが詰まっているし、詰めたはずだ。そう思ったけれど、枷が外れたかのように玲の口は言葉を吐き出し続けた。
「陽平の母親は、彼が二年生になった少し後に家を出た」
今になって日数を逆算すると、それはビー玉事件から一週間後のことだった。息子の悪戯を怒っていた彼女の胸の中では、既にその決心が固まっていたのかと思うと、人間の表層を覆おう薄皮の存在が空恐ろしくなる。
「父親の母子に対する暴力は何度かあったらしい。彼女はその暴力に耐えきれず、陽平を残して家を飛び出した。朝、彼が目覚めると、前夜までいたはずの母親の姿は家になかった」
残された陽平は消えた母親のことを恨もうとはしなかった。
むしろ、逆の感情が彼に宿った。
獅子の子落とし。
どこで知ったのかは分からないが、彼は、母親の逃亡をそのことわざの通りに解釈した。母親は自分の強さを信じて崖へと突き落したのだ、と都合のいい言い訳を自分自身にした。
「陽平はその日から、今現在まで、父親と二人で生活をしている」
理不尽な境遇も不条理な条件もすべて受け入れ、抵抗し、彼はこの世界に反抗している。絶壁を這い上がり、その上にいる母親の姿を夢見ている。
――ボクは、陽平に何かして上げられたのだろうか?
玲は自嘲気味に頬を歪ませ、陽平から受け取ったものの多さに圧倒される。あの誓いによって自分は強くなれたけれど、陽平はどうだったのだろうと様々な了見を飛ばしては、彼にとって誓いがどうしても必要なものであったとは思えなかった。互いに強く生きると約束を交わさなくても、当時から独りで暴力に耐えていた彼は、十分に強い人であったとしか思えなかった。
「陽平の欠席は、それと関係していると思う」
涼弥とプリントを渡しに家へ赴いたとき、陽平の姿を確認することは叶わなかったけれど、彼はあの家にいた。虐待の事実を知っている玲は、陽平の父親の反応を見てそう確信していた。
強く歯を噛み締めて怒りに耐えている浩次。目を端に涙を湛えている実。目の前にいる二人は、恐らく、陽平を救おうとする。
大抵の人が虐待を受けている子どもの存在を知れば、どうにかしてその子を助けようと奔走するだろう。そうなってしまえば、逆境に立ち向かい獅子の子のように強くなろうとしている陽平の誓いは粉々に粉砕される。そうなると知りながら、ボクは二人に話した。陽平の信条を瓦解させてでも、五人で過ごす日常を取り戻したかった。
「でも――彼は虐待の事実を認めはしないだろう」
困難の先に待つ、ありもしない希望を夢見ているのだから。