アの問題児 『明石 実』
幽鬼のように立ち去った渡辺の姿を思い出すと、やる瀬ない感情が実の胸に溜まった。担任の心労の原因を生み出しているのは、紛れもなく自分たちであることを彼は自覚していた。
――でも、今回は仕方ないよね。みんなの前に出て問題を解くなんて、緊張して僕にはできないし……
自分自身にそう釈明をしてみるけれど、やはり今日のいさかいの原因を招いてしまったのは自分だろう。授業が終わったあともそのようなことを悶々と考えていた。
「実、そろそろ帰ろう」
顔を上げると正面に涼弥が立っていた。
涼弥は前髪をキザったらしく、ふっと吹き上げてにやりと微笑んだ。他の人がそのようなことをしたら、自己愛の激しいやつだと後ろ指を指されそうだが、彼がやると様になっていると実は毎回そう思う。
涼弥とは一年生の頃に知り合った。入学式前の緊張で心臓が張り裂けそうだった実の肩を叩き、「お前、緊張しすぎだよ」と一笑したのが彼だった。
それ以後、どこか大人びた涼弥の影に隠れるようにして学校生活を送った。四年生のときに一度だけ別々のクラスになってしまったけれど、そのとき以外すべて涼弥と同じクラスであったことは、緊張しいの実にとって救いであった。
実は、自身の異常なまでに内気な性格を疎ましく思っている。
できることなら一人で何でも熟せるようになりたい。そう願っているのだが、いざ単身で行動を始めようとすると周囲の視線が気になって仕方がないのだ。
自分が注目を集めるような存在でないことは自覚しているけれど、どうしてか始めの一歩が踏み出せないのである。
彼がここまで極端に内向的な性格になった原因は、二年生のときに起こった。
個々人で興味のある職業を調べ、みんなの前で発表するという授業があった。実は警察官について調べた。それは勇士あふれる警察官への羨望があったからだろう。
調べること自体はとても楽しかったのだが、ついに発表の日が来てしまう。
人前で発言をすることは気恥ずかしく思えたけれど、これも授業の一環であるので自分だけ例外とはいかないだろうと覚悟を決めて教壇に立った。
自分一人に集まる、視線。
三十人弱という小規模な注目であったのだが、初めて人前で何かを行う実にとってこの状況は、大統領演説をするのと同列の行為のように思え、実際にそのような錯覚に陥った。
心の底にまで深く根を伸ばしたトラウマが甦り、涼弥と廊下を歩きながら実はぶるりと身を震わした。
当時と同じように心臓が暴れ出す。喉がからからと渇き、膝と唇が震える。
「ぼ、ぼぼ僕が調べべたのは――」
緊張のあまり、第一声で実の舌は絡まった。
子どもは無邪気であるが故に残酷なものである。緊張しきった様子を見て、クラス中が大笑いに包まれた。
彼らの笑い声はすべて嘲笑に変換されて届いた。それは紛れもない錯覚なのだが、一度思い込んでしまうと引きずられるようにして実は錯誤の波にもまれていった。
顔中から汗が噴き出、耳はトマトのように赤くなる。いよいよ涙が流れ始め、結局、先生に導かれるようにして自席へと戻った。
そのあとの発表は涼弥であった。
実は顔を机に伏せながら、涼弥の『宇宙飛行士について調べたこと』を聞いた。
黒板の前に立った涼弥は、大人が顔負けするくらい堂々とした居住まいで、自分とは同い年とは思えないくらい流暢に喋り、意図的に皆の笑いを誘い出して発表を終えた。
実は悔しくなって机の上にぽろぽろと涙を落とし聞いていた。
どうして自分はここまで出来損ないなのか。どうして涼弥はあんなにも自信に満ちあふれているのか。どうして自分は一番の友達でもある涼弥のことを、恨めしく思ってしまっているのか――
「おい、実。聞いてるか?」
耳元で聞こえた涼弥の声に、実は驚いて飛び上がる。
「え、え? なに? ごめん聞いてなかった」
「まったく、しっかり頼みますよ、実さん」
茶化すような語調の涼弥に、実は弱弱しく笑い返した。
「それで、なんの話をしてたんだっけ?」
「かー。そこからっすか、実さん」
涼弥はわざとらしく額に手をやって天井を仰いで嘆いた。それがまた様になっているところが涼弥らしい。
「さっきの授業のことだよ」
「ああ、先生に悪いことしちゃったよね」
「あ、自覚はあるのね」
「自覚というか……やっぱ原因を作っちゃったのは、僕だと思うし……」
「ま、原因にしたのは俺だけどな」と涼弥がにやりと笑った。
階段を下り職員室の横を抜けて二人は昇降口へと向かう。
「しっかし、なぁ。浩次は本当に『空気』の読めないやつだよな」
涼弥が靴を履き替えながらそう言った。彼は、先ほどの授業で『起こした』一連の騒動での江ノ島の話をしているようだ。
「実が作った流れに俺が便乗して玲も乗ったってのに、どうしてお前は問題を解きに行くかねぇ、と呆れたよ、まったく。俺の計画では五人連続で『分かりません』って答えるはずだったのに」
涼弥は心底から呆れているようで、息を強めに吹き上げて前髪を揺らした。
「でも、仕方ないよ。口頭で伝えた訳じゃないんだし」
「玲はちゃんと乗ってきたぞ」
「あの子は――いろいろと変わってるからねぇ」
そこで何となく会話は途切れ二人は黙った。
下校時刻を回っているからだろう、他の生徒の姿は疎らにしか見られない。その所為で、実はこの沈黙がやけに重く感じた。
涼弥は大きく開け放たれた昇降口を抜け、そのすぐ先の御影石でできた床にどっかりと胡坐をかく。焦って靴を履くのにもたつきながら、実も涼弥の横で三角座りをした。
――こんなところに座っていたら、通る人の邪魔にならないかな……
通行人の心配をしていた実の横で、庇よりもずっと上にある青い空を見上げて涼弥が言った。
「この空の先には、本当に宇宙があるのかな」
鼻白むセリフであったが、それが様になっていたのは言うまでもなかった。