そして、蠢く闇(3)
息を切らせ、玲は水場へとたどり着く。
暗闇でも体は道順を覚えているのだ、と我ながら自身の記憶力に感心をした。
――あれ、暗い?
着いてから初めて、玲は壕内に誰の気配もしていないことに気付いた。手探りで涼弥の大型ライトを探す――が、いつも置いてあるはずのシートの中央にそれはない。玲は不思議がりながら、異常なまでに静止している暗闇に立ちすくむ。何者もなく明かりもない。世界から一人だけ取り残されたかのような非情さが周囲で渦を巻く。
もしかしたら、自分は彼らから見放されてしまったのだろうかという不安が奔ったが、来るときに見た夕暮れに染まる街並みを思い出して安堵する。
――いつもならもう帰っている時間だ。きっと、もうみんな帰ってしまったんだ。
そう自分に言い聞かせて、玲は地下壕から抜け出した。外はもう真っ暗になっていて、物悲しさに押されるようにして歩みが速くなる。息を止めているかのように寂寥とした緑地を独り進む。密生する木々は風で囁き、独り歩く玲を取り巻いてひそひそと噂を取り交わす。
『どうしてあの子って――なんだろう?』『――なんだよ、きっと』『そういえば、あの子って――なんだって』『だから――なのかな?』
ひそひそ、ひそひそと影で行き交う流言。上下左右から飛んでくる囁き。気にしないように心掛ければ掛けるほど、折れ曲がった針金のように胸の端に引っ掛かり、じくりじくりと小さな傷を広げていく。
大きく風が吹き、天上の葉が毛羽立って一斉に鳴る。玲は立ち止まり、ずっと正面を見据えていた顔を伏せ、靴の先を見るように低頭した。
「つらい、な」
小さなその声も、草木の囁きに擦れて消えた。
翌日、空席となった陽平の席を見て、玲は胸騒ぎを覚えた。
――陽平は学校に来ることだけが人生の楽しみと豪語するようなやつだ。これは冗談ではなく、彼は本心からそう語っていた。風邪を引こうが雪が降ろうが台風が来ようが、陽平は一度も学校を休んだことがなかった。その陽平が、学校を休むとはとても思えない。
玲はゆっくりと深呼吸をして、頭を整理する。
――思い当たる節はあるけれど、確証がない。
昨日、秘密基地に行った彼らなら、昨日の陽平がどのような様子であったか何か知っているかもしれない。
ホームルームで、陽平が欠席した理由を渡辺が尋ねてきたが、誰も反応を示さなかった。どうやら欠席の連絡も学校に来ていないらしい。渡辺は首を傾げながらネクタイの位置をぞんざいに直し、そのまま授業へと移行した。涼弥たちに尋ねる機会を逃して、玲は歯痒い思いで休み時間を待った。
休み時間が来ると、声をかける間もなく涼弥たちは示し合せたように揃ってトイレへと向かった。玲はトイレの前の壁に寄りかかって三人を待ち構えることにした。
トイレの中からもれてくる三人の声を、耳を澄ませて拾う。
「どうするの?」
「そうだ。渡辺が――の家に連絡するぞ。そうした――るぞ」
実と浩次の声だろうか、二人の声は何かに怯えているように聞こえた。
「俺が――するから」
これは涼弥の声だろう。こちらは普段通りであった。声がよく聞き取れず、玲は扉に接近する。どこかのクラスの女子生徒が不審な目を向けるが構っていられない。
「とにかく俺――任せと――って」
涼弥の声が扉を隔てたすぐそこで聞こえ、玲は慌てて扉から身を離した。
あ、とトイレから出てきた三人と対峙する。
「おう、どうした?」
涼弥は平然と玲の横を通りすぎたけれど、浩次と実は不自然に視線を逸らした。玲は教室に向かおうとする三人に投げかける。
「昨日、秘密基地に行ったのだろう? 陽平は何か変な様子ではなかったかい?」
浩次が『陽平』という言葉に敏感に反応し、実も伏し目がちになった。涼弥はそんな二人を一目して間を置き、あっけらかんとした体で答えた。
「昨日はあそこ行かなかったんだよ」
実や浩次の態度からそれが嘘であることは見抜いていた。それを追及しようとした瞬間、都合よく予鈴のチャイムが鳴り、呼び止める間もなく三人は教室へと引き返して行った。
その後も追及をしようとして三人に接近したが、涼弥が体良くかわして放課後までもつれこんでしまった。
「それでは、ホームルームを終えたいと思います」
気の抜けた調子で担任がそう告げた。パンダのように隈取られた目元でさっとア行の列をたどり、何か思いついたかのように渡辺は言った。
「大谷くんの家に、今日のプリントを届けに行ってくれる人はいませんか?」
それはクラスにいる生徒全員に向けたものであるが、その目は玲たちを見ていた。涼弥が手を上げ、「先生。俺、行きますよ」
言いながら少しだけ振り返って横目を玲に寄越した。それを受けて玲も続いて手を上げた。実と浩次は何の反応も示さなかった。
「えーと、じゃあ。二人にお願いしようかな」
◆
「――で、どうして先生も一緒に来るんだよ」
「一応、担任だしさ」と力なく笑った渡辺を見て、こんなひ弱な奴が教師なんて勤まるのかよ、と涼弥は鼻で笑う。首だけで背後に振り返り、数歩後ろで思案顔をしている玲の横まで速度を落として並行する。
「浩次と実は?」
玲が声を低めて尋ねてきた。
「あいつらは用事があるから来れないってさ」
「そっか」
玲はさほど興味がなさそうに相槌を打つ。涼弥は正面を歩いている渡辺との距離を目測し、忠告をするかのように小声で言った。
「まだ、あいつらには黙っとけよ」
玲は涼弥が何のことを言っているのか考えているようで、ぱちくりと瞬きをしていて涼弥をやきもきとさせた。幾許かして、涼弥が何を言いたかったのか思い至ったようで、玲はこくりと頷いた。
丘の先から自然公園の入り口がゆっくり現れてくる。涼弥は舗道に沿って設えてあるフェンスをのぞき込み、下にある緑地を確認する。日が暮れて薄暗いため、底の方はよく見えないが見知った緑地に間違い。
自然公園の前をすぎ、街並が少し寂れてくる。陰った給水塔がだいだら法師のように丘の上にそびえ、古びたアパートがぽつぽつと見え始める。
「なんか、この辺りって廃墟って感じだよな」
いつも以上に口数の少ない玲を気遣っているのか涼弥は何気なくそう口にして、遠くの空に浮かんでいる黒い雲塊を眺めた。今夜は雨が降るかもしれない。それを暗示するかのように強い山嵐が吹き、涼弥は反射的にメガネが飛ばないように手を添えた。玲は乱れる髪を邪魔くさそうに押さえている。前を歩く担任のネクタイが吹き飛びそうになっているのを見て、強風に煽られた間抜けな鯉のぼりを連想して、涼弥は鼻から小さく息を吹き出して言った。
「あれ、鯉のぼりみたいだな」
玲は別段面白くなさそうにそれを見て乾いた笑い声をもらす。嘲笑の対象になっているとも思いもしない渡辺が立ち止まり、脇にあるブロック塀に囲まれたアパートを見上げた。そこには、風で軋み悲鳴のような音を立てているおんぼろのアパートがあった。
――こんな骨董品みたいなアパートが現実にあるのかよ。
病的なほど老朽化したアパートを見上げながら、涼弥は口に出さず心の中でそう呟いた。
渡辺は真っすぐ一〇二号室を目指し、木戸をノックする。涼弥は渡辺の横に立ち、玲は何故か戸の陰になる場所にいた。部屋の中からがちゃがちゃと音がして薄い戸が開く。僅かな隙間から億劫そうな男の顔がのぞいた。
「誰だよ?」
渡辺の姿を見て、部屋の主は濁声でそう尋ねた。
「あ、えっと。私は草ヶ丘小学校で陽平君の担任をしているものでして」
渡辺は部屋の主をうかがうように低頭して続ける。
「今日、陽平君が欠席したので、プリントを持って来ました」
「あっそう。ごくろうさん」
男は隙間から皮が剥けた武骨な拳を出す。
――これが陽平の親父さんかよ。何だか、陽平のイメージとかけ離れているな。
涼弥は、陽平とこの父親を掛け合わせてみるけれど、どうやってもその二つは重ならない。彼が抱いた感想通り、陽平の父と思われる男はなかなかプリントを差し出さない渡辺に凄むように言った。
「早く渡せよ、そのプリント」
「あ、あのですね」
渡辺は気合でも入れるように小さく息を吸った。
「できれば、陽平君に直接手渡したいのですけれど」
渡辺のこの言葉を聞いて、突如として気候が真夏から真冬へと飛んだかのように、場の空気が一変した。全員の顔を見られる位置にいた涼弥だけが、ある二人の表情が明確に変化したことに気が付くことができた。
それは、怯んだ陽平の父と、救いを得たかのような玲の顔であった。
「い、今、陽平は風邪で寝込んでるから……」
陽平の父親は明らかに狼狽えていた。素早く手を伸ばし、プリントを奪おうとする。担任はそれをかわし「一目だけでもいいんですよ」と言い、扉の隙間から室内をうかがおうとする。それを陽平の父が体で遮った。
一体今、何が起きているのか。涼弥は理解に至ることができなかった。
頑なに陽平に会わせようとしない父親。会おうとする担任。息を飲んでそれを見守る玲。三者三様の表情であったが、その目線の先は同一のものに向いているように思えた。
自分だけが知らない何かが今ここで起きている。それだけは唯一この状況から汲み取ることができた。
渡辺の不意を突いてプリントを奪い去った陽平の父親は、音を立てて戸を閉める。渡辺の顔には、焦りのようなものが垣間見えた。
玲が瞳を閉じ小さく息を吐く。その沈んだ表情の中に、どこか希望のようなものが宿っていることを涼弥の慧眼が見抜き、違和感を覚え眉間を狭める。さっきの状況のどこに『希望』があったのだと自問する。
――希望、あの中のどこに?
陽平の父と渡辺のやり取り。それを見て玲が抱いた希望。陽平に会わせようとしない父親。粘り強く会おうとした渡辺。渡辺の一声で、場が急変したのを思い出す。
考えれば考えるほど、その答えは離れていくようで、そこに行きつくには定規で空の高さを測るかのような無謀なことに思えた。
渡辺が「もう行こうか」と呟いて、涼弥たちはアパートを後にする。
夕空を雲が覆い始めた所為で、いつもより街並みは色あせている。舗道に居並んだ街灯がちかちかと明滅する。それに触発されたかのように、涼弥の頭の中で光が瞬いた。
点在していた欠片が合わさり絵を描く。描き出された場景を見て、考えたくもないある憶測に到達する。
――これが本当ならあいつを許せない。でも、この推理が真実であると確信するには、あと一つが足りない。
陽平の古くからの友人である玲なら、それを握っているはずだと涼弥は踏んだ。
「なあ、玲」
涼弥の神妙な声を聞いて、隣で歩いている玲が顔を向ける。涼弥は迷うことなく単刀直入に切り込んだ。
「お前、何か隠しているよな?」
申し合わせたかのように夕日が沈んだ。街灯に光が灯り、目を大きく見開いた玲の顔を照らす。まるで推理映画の一場面のようだ、と暢気に考えるくらいの余裕が涼弥にはあった。
一秒、二秒――いくら待っても玲は口を開かなかった。その無言は何よりも涼弥の推理が当たっていることを示していた。
涼弥は陽平の顔を描く。そうして、いつでも笑顔を絶やすことのない陽平の中にある『闇』に涼弥は触れてみた。それはとても痛くて、重くて、たぶん自分なら耐え切れないと思った。いつも笑っていた陽平が、心では笑っていなかったのだと知って胸を締め付ける。
「すまん、玲。変なこと聞いて」
玲に笑いかけ、フェンスの向こう側の緑地をぽかんと見つめていた担任の尻を叩いて通り過ぎる。
「先生、ぼっとしてんじゃないぞ、まったく」
「あ、ああ。ごめんごめん。――もう、暗いからお前たちは帰りなさい」
「言われなくても帰るよー」
涼弥は駆け出す。走って、視界を狭めて頭の中に集中する。
――玲はどうして何も言わないのだろう。陽平と最も仲の良い玲が、何もしないはずはない。
伍物語をした日、玲が語った猫の話が自然と想起した。
傷だらけの黒猫と棄てられた白猫。人間の理不尽さに翻弄される猫たち。
猫たちはどんなに人に憧れて足掻いても、人にはなれない。
俺たちがどんなに世界に救いを求めても、救われることはない。
救われたいのなら我を殺して、世界に従うしかない。
――そんなのは、まっぴらごめんだ。
自分の好きなことができない人生なんて、必要ない。
俺は俺のやりたいと思ったことだけをする。誰の指図も受けたくない。その結果、周囲から浮いてしまうのなら、それこそ望むところだ。徹底的に立ち向かってやる。死ぬまでこの理不尽で不条理な世界に抵抗してやる。そうやって、自分の存在を確立してやる。俺は俺だと世界中に知らしめてやる。
黒い屋根を載せた自分の家が見えてきて、もうそんなところまで来たのだと涼弥は驚く。ズボンのポケットから鍵を出し、静かに扉を開ける。ほの暗く伸びる廊下の先、食卓の賑やかな灯りを涼弥はうら寂しげに眺め、やがて忍び足で自室に向かった。
部屋の明かりは敢えて点けなかった。ベッドへと倒れ込み、天井を見上げると満天の星々が瞳に降り注いだ。星と星の間に星座のようなしがらみはない。星々は自由に光を発し、天井に星空を創り出している。
文房具店で売っている発光シールを、星形に切り取って張り付けただけの簡易的な創作。月のない夜は明かりを点けず、こうして自分だけの宇宙を満喫する。
永遠と膨らみ続ける宇宙を旅したい、と宇宙飛行士に憧れていた頃もあった。
あの洞窟に踏み入ってから、別に宇宙飛行じゃなくて深海探査でもよかったのだと気付かされた。自分は『非情なほどの深さ』に憧れていただけだった。
その憧れをもたらしたのは、兄だった。
勉強ができ、どんなスポーツも易々と熟し、外見も申し分なかった。幼い頃から俺は兄と比較されてきた。幼いながらに、この兄には決して勝てないことを悟っていた。
だから、俺は突飛なことをして両親の気を引こうとした。そうすれば、あの人たちは俺のことも見てくれる、そう思った。最初の間は構ってくれたけど、次第に見向きもしなくなった。どんなに頑張って己を主張しても、俺の個性は兄の存在感に到底及ばなかった。
両親の注目がすべて兄に向いてしまうことは寂しかったけど、兄だけはいつでも傍にいてくれたから、そんなに苦痛じゃなかった。
俺は宇宙のように、深海のように、あの洞窟の闇のように――底の見えない兄を慕い憧れていた。それは、兄が決して俺を見下さなかったからだと思う。
『お前にしかできないことがある』
兄はしきりにそう言っていた。自分はなんでもできる癖に、俺にしかできないことがあると言う。 そんな非情なほど深い懐を持った兄が大好きだった。でも――
いわゆる天才と呼ばれる部類であった兄は、事故に遭ってすべてを失った。
涼弥は上体を起こして、天井の星に手を伸ばしてみた。どんなに伸ばしても、その手が星に届くことはなかった。
――今からあの洞窟に行ってみようかな。
夜に。一人で。あの地下壕へ。
一度それを思うと、連続して起こる小爆発のようにその衝動を止められそうになかった。涼弥は足音を殺して部屋を出た。楽しそうな団らんの会話が廊下の先から聞こえてくる。
――あの人たちは、まだ兄にしか見ていない。
自分も同じだ、と苦笑して涼弥は玄関を抜けた。
夜の街には小雨が降っていた。
モノクロの無声映画でも観ているかのように、夜の街は静かで変化がなかった。
雨の匂いに鼻をひくと鳴らし、肌へと沁みる夜気が胸の底を落ち着かせる。次第に雨脚が強まってきたが、傘を取りに戻るなんて野暮なことは考え付かなかった。
雨に降られながら涼弥は夜道を歩く。
等間隔に路面から生えている街灯の明かりに、バシバシと蛾が特攻を繰り返していた。彼らは決して届かないそれに、どうしてか向かっていく。ぶつかって弾かれて。それでも彼らは突撃を止めない。今ならそんな蛾たちの気持ちも分かるような気がした。濡れ姿の彼に、帰宅途中のサラリーマンが奇異な目を向ける。そのような目は彼にとってもう慣れたものであった。
シオハラ邸まで一気に坂を駆け抜け、フェンスを抜けて緑地へと飛び込む。
雨露に濡れた夜の緑地は深かった。緑と夜が重なり合って深緑となり、雨滴が地表をぐずぐずと煮込んで振り上げた一足を地底へと沈み込ませる。
すべてが違う景色に見えて、涼弥を感激させる。
見たこともない景色。摩訶不思議な現象。思いもしない行動。自分の考えが及ばない出来事をたくさん集めていれば、いつしか自分が目標とする人物像――天才の兄とも違う、天災のような人物――いつしかそれに至れるだろう。
腐葉土の坂を上がり、洞窟へ踊り込むようにして入る。神経が高ぶり研ぎ澄まされ、真っ暗でもそこに何があるのか見える気がして、ぐんぐんと涼弥は闇の底へと突き進んだ。
やがて、水場に到達する。雨が滲み出してきたのか、天上から雫の玉が落ちて玲瓏な音を響かせた。昼間よりも冷えているという些細なことですら胸を高鳴らせる。
涼弥はぼろぼろのソファーの上に横になって息を整える。そう言えば懐中電灯を持ってくるのを忘れたな、と今更になって気が付く。
何だか無性に楽しかった。久々に兄のことを思い出したからかもしれない。
深い闇。ここに引かれたのは兄への憧憬からだったのだ。あの頃の兄が帰ってきたようで嬉しくなった。もっと、兄と話したかった。もっと兄に近付きたかった。
涼弥はソファーから起きて立ち上る。足元でビニールの音がして、土足でシートに上がっていたことを聞き知る。どうでもいいと思ったけれど、後でみんなに文句を言われて掃除をするのも何であったので、靴を脱ぐことにした。
脱いでいると、手の端に刺激を感じた。小さな針で刺されたかのような僅かな痛みであったが、視界がなく神経が敏感になっているため、予想以上の痛みとなって返ってきた。
それを指でたどる。針は靴の裏から生えているようであった。
緑地を抜けたときに、枝か何かが裏の溝に挟まったのかもしれない、と涼弥は靴からそれを取り払い指の腹で摘まんでみた。
――木の枝か? いや、違う。なんだこれ?
明かりがないので視認できないが、枝のようなザラついた触感ではなく、冷たく滑らかな金属のような感触だった。
何だろう、と涼弥が首を傾げていると――背後から物音が聞こえ、仰天して振り返った。何も見えないが、何かがいるのは分かった。
砂利を踏みしだく音。動物か何かが、這うようにして歩いている印象を抱いた。
涼弥は頭の中でここの見取り図を開いて、音源の詳細な位置を探った。
――んと、俺は今ソファーにいるから……音がしてるのは、海賊の人形のとこからか?
人形が動いているという想像をして慄然としたが、そんなバカなことある訳がないと涼弥は暗闇に手を伸ばしながら、そろりそろりと慎重に音のする方へと近寄った。音源の方も涼弥に接近しているようで、地面を鳴らす音は次第に大きさを増していく。
自分自身の動作音が反響しているのではないか、と訝っていた涼弥の胸に、衝撃が奔る。涼弥は地面に転げ全身を強く打ち据えた。瞬間のことで何事か判じかねている彼の胸から、じわりと鈍い痛みがあふれて来、口の中に血の味が広がった。
――な、なんだッ?!
動転する思考の手綱を必死に握り、涼弥は状況を分析する。
――俺はなにかに襲われた。そのなにかってのは、さっき動いていたものに違いないと思う……
自分が何に恐怖しているのか、それすらも知ることのできないこの事態に、滅多に取り乱すことのない涼弥ですら全身を震わせながら恐怖した。
――なんなんだよ、これッ?!
今度は肩に痛みが襲った。地面を転がっていく涼弥は、ふと、この何かは暗闇の中でも自分の所在を把握していることに疑問を抱くも、すぐに追撃が襲う。涼弥は痛みに堪えながら、瞬時にその襲撃者を掴まえた。
――なんだ、これ? この感触は……?
後頭部に感じたこともない鈍痛が落ちて、涼弥の意識が暗転する。聡い彼は、この一撃が致命傷であることを感じた。絶命の間近にいるというのに、泥沼に沈みこむ滑稽な自分の姿を想像して、内心では安閑と笑っていた。
やがて暗い視界から深い意識への降下が始まる。
『お前にしか出来ないことがある』
どこからか兄の声がした。
――兄さん。俺にしかできないことって、なに?
兄は答えなかった。恐らく『それは自分で考えなければならない』と理知的な顔をゆがめているに違いなかった。
急激に体が軽くなる。対して頭が重くなる。
死ぬこと自体はそれほど恐ろしいことではなかった。
元より『死』というものに興味があったし、何よりも尊敬する兄と同じ場所に行けるのなら本望だとも思った。
ただ――あいつらに、何も言わずに逝ってしまうのは悪い気がした。
重い頭を精一杯回して、どうせ死ぬのなら自分らしく最期に何かしてやろうと涼弥は思った。
脳の血管が龍のように脈を打つ。人は死ぬときに走馬灯を見るらしい。そのときの人の頭は、きっと創造主のそれよりも優れたものに相違ない、と思考の断片を光速で重ね合わせている自分の脳を感じて、涼弥はそう思った。
今までの過去が、出来事が、細切れに砕けて、丸いビー玉状に収束する。その青と白のマーブル模様の球体の中に、兄と手を繋いだ小さな自分の姿を見付けた。
――あれは、兄が事故に遭う一週間前だった。
母親にお使いを頼まれ、俺は兄と一緒に坂の下にあるスーパーに行った。その帰り道だった。
二人で坂を上っていると、上から光が降ってきた。
俺はその幻想的な景色を見て「兄さん! 光が降ってきた!」と興奮のあまり兄の腕を握りしめて言った。兄は痛そうな素振りも見せず、俺に微笑みかけた。
「涼弥。あの光は俺たちだよ」
幼い俺は、その意味がよく分からなくて小首を傾げた。兄の手が優しく頭に乗った。
「光には希望があり可能性がある。その輝きは俺たち一人一人の胸の底にもあるんだ。それを忘れてはいけないよ」
今考えると、光を見つめる兄の目には愁いが宿っていたように思える。まるで一週間後に訪れる、あの何もかも奪い去っていく事故を悟っているかのような、そんな顔だった気がする。
「俺にはすべてが揃っている」
兄の言葉に傲慢はまったくなかった。兄はどのような人も特別視しなかった。性別も人種も年齢も学歴も障害の有無も、兄にとっては些末なものにすぎなかったのだろう。だからその言葉は、客観的に自分自身を評価した結果、口から出たものだった。
「俺には俺にしかできないことがある。けれど、俺にもできないことがある」
今なら合点がいく。兄にできなかったことは、これから自身に起こる運命を変えることだった。
「だから、涼弥。お前はお前にしかできないことをするんだ。お前にしかできないことがある。それを全力でやるんだ」
兄と俺の間を、光の玉が転がり抜けていった。
近くで見れば、何の変哲もないただのビー玉の大群だった。誰かが悪戯で坂の上から撒き散らしたのだろう。それに太陽の光が反射して、キラキラと光る玉に見えたのだ。
どこかの悪ガキの悪戯が原因となって起きた出来事であったけれど、俺にとってこの思い出は大切なものに違いなかった。
――そうか、俺はあのときのような、感動がほしくて……
どろどろと暗い中に何かが光った。涼弥が無意識にそれを手に取ると、膨大な量の光の奔流が頭に雪崩込む。血管から血液を追い出し、脳に光が充満する。暗闇だった視界が、転瞬の内に目映く早変わりをする。
そして、涼弥は自分を殴りつけてくるものの正体に行きついた。
自分の機知も捨てたものではなかったようだ、と声を出して笑おうとしたが、口からは鉄の味がする粘ついた液体が出るだけであった。それでも彼は笑うことを止めなかった。
――諦めずに努力を続けたら、俺も兄さんのように特別な人に慣れたのかな?
絶命への後悔がにわかに過ぎったが、鉄味のそれと一緒くたにして胸から洗い出す。
――こいつに。俺を殺すこいつに、致命的な何かを負わせてやろう。
これが最期の方策になるのだと思うと、無性にやる気が込み上げてきた。自分の口が卑しく吊り上っているのが分かった。最期にこのような策略を思いついた自分に拍手を送ってやる。
――たぶん、成功すると思う。
確率は低いし、他力本願な作戦だ。だけど成功する、と涼弥は確信していた。
これが自分にしか出来ないことなのかは分からないけれど、成功したときのシチュエーションを思い浮かべて、涼弥はにやりとほくそ笑む。
――宝を隠すなら宝箱ってね。
細く薄く、緊迫していた糸が、ぷつり、と切れる。支えを失った操り人形のように、痛めつけられた彼の体は、暗く濁った泥の底に重く沈んでいった。
◆
涼弥が走り去っていった。
ぼけっと突っ立っている渡辺と一緒にいたくもなかったので、玲は担任に声もかけず自然公園を抜けて施設へと帰った。
自室に入り、窓から厚い雲を眺めた。ぽつぽつと血しぶきのような雨が、アスファルトに落ちて、やがて本降りとなった。夕ご飯を知らせる六時のチャイムが鳴り、玲は食堂へ向かった。