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そして、蠢く闇(2)



 職員室の扉を開けると、顔が一斉にこちらへ向いた。玲は見せつけるように名簿を顔の横に掲げる。


「渡辺先生はいますか」


 一番近くにいた教師が渡辺の席を教えた。礼を述べ、玲は担任の席を目指した。

 机の間を横断していく玲の姿を見つめる教師たちの視線には、二種類あった。

 「届けに来るなんて、偉い生徒だな」と「ああ、あの子か」という二つの眼差し。その違いは言うまでもなく、前者は玲が『ア行の問題児』の一員であることを知らず、後者は知っているというだけのことである。比率で言えば、前者の方が圧倒的に多かった。それは、五人の中でも玲の顔はあまり割れていないからなのであろう。

 

 玲が一番窓側にある担任の席に着くと、そこはもぬけの殻であった。

 どうしたものかと名簿をもてあそんでいた玲に、大仏のような老教師が気付いて言った。


「ああ、渡辺先生か? 何だか最近体調が悪いみたいで、今日も早めに帰ったみたいだぞ」


 「そうですか」と玲は名簿を大仏に見せる。


「これ、教室に落ちていたので届けに来ました」

「そうか! 偉いじゃないか!」


 人の善行を喜んでいるかのように、大仏は愉快そうに笑って玲の肩を叩いた。

 それが彼なりのコミュニケーションの取り方なのだろうが、叩かれる都度、玲に嫌悪感が重く沈んでいった。肩に釘を打たれているかのようにその部分がじんじんと痛みだし、化膿した傷口に触れられる気持ち悪さで全身が脈を打つ。胃が収縮し、上ってくる吐き気を堪え切れず――


「気持ち悪いので触らないでください」


 気付いたら玲はそう口走っていた。

 呵呵としていた大仏の太い眉がじわじわと上がり、快活な仏の表情から明王の形相となった。


「何だ、その態度は」


 大仏教師の威圧的な声に嫌気がさした玲は、「すみません」と抑揚なく謝った。その対処がますます教師の神経を逆なでてしまった。


「ちょっと座れ。お前、渡辺先生のクラスだよな。名前は何ていうんだ」


 名前なんて聞いてどうするのだ、と言い返したかったが、早くことを終わらせたかったので素直に従うことにした。


「内田です」


 それを聞いた教師の口元が嗤ったのを玲は見逃さなかった。見逃せなかった。


「ああ、『あの』ね――」

「あのって、なんだよ」


 玲は我慢できなかった。

 不穏当な事態に教師たちの注目が遠巻きに集まる。それすら意に介さず、腹の中に溜まった積年の思いを吐き出すようにして玲は捲くし立てた。


「お前たち大人はいつもそうだ。ちょっとでも規則に従わないやつを見付けると、すぐに矯正しようとする。自分の意思に迎合しない子どもを愚かだと、勝手に決めつけてレッテルを張る」


 自分がどうしてここまでいきり立っているのか、分からなかった。


 ――なんだか最近短気になったな。昔はもっとあらゆる物事を諦観していたような気がするのに。


 絶句する大仏に止めどなく流れ出る鬱憤を吐きながら、内心では自分の心境の変化を静かに手繰る。その頭の中では、誰に打ち明けている訳でもないのに自分自身の境遇を語り出していた。そうすることで、この湧き上がる怒りの正体を知れるはずだと玲は思った。

 

 ――ボクは小学校二年生のとき、親に捨てられた。

 もともと裕福な家庭ではなかったけれど、父と母、三人での暮らしはボクにとって幸せ以上のなにものでもなかった。それだけで、ボクは幸せだった。

 窓から見える桃色の桜。川の字になって眠った夏の日の熱帯夜。金木犀の香る小さなベランダ。炬燵で過ごしたお正月。四季が流れていくごとに幸せが増していくように思えた。

 

 でも、そう思っていたのはボクだけだった。

 何時になっても、父はおろか母も帰って来なかった。

 ボクは待っていた。

 埃っぽい玄関にある灰色のドアが開くのを、膝を抱えてずっと待っていた。

 ドアを見つめながら、いつの間にかボクは眠っていた。

 夢の中にも、そのドアはあった。そこでもボクは独りで父と母の帰りを待っていた。待っていた。ずっと待っていた。

 

 目を覚ましたボクの目に、見覚えのない天井が飛び込んだ。

 戸惑いながら身を上がると、ボクすぐ傍にいた知らない人がいて、その人は知らない人なのに優しい口調でこう言った。


「今日からここがあなたの家よ」


 ボクが眠りに就き、それから数日が経っていたらしい。その間に、様々な手続きが行われて、ボクはこの孤児院に住むことになった。

 その孤児院のことは、よく知っていた。自然公園の先にある、緑に包まれた小さな平屋。まさか自分がそこに住むようになるとは、夢にも思わなかった。

 そこにはボク以外にも何人かの子どもたちがいた。彼らは皆幼かった。そこではボクがもっとも年上だった。

 

 自分よりもずっと小さな彼らは、笑っていた。

 笑えていないのはボクだけだった。

 ボクは、彼らはまだ幼いから自分が捨てられたことをよく分かっていないのだと思った。だから、あんなにも無邪気に笑えているのだと、心の内で彼らのことを見下した。悲しいことを悲しいと知ることのできない彼らは、ボクよりも悲しい存在なのだと決めつけ、それを自覚しているボクは、彼らよりも勝っているのだと浅ましくも優越感に浸っていた。

 それでも、施設の中で自分だけ笑えていないことが、胸の中に泥を詰め込まれたかのように苦しかった。

 その苦しみを失くすために、ボクは、施設の中で一番綺麗な笑顔で笑う女の子を掴まえて言ってやった。


「キミは親に捨てられたんだよ」


 彼女もボクと同じように両親に捨てられた子だということを密かに知っていた。ボクとまったく同じはずなのに笑うことのできる少女が、これ以上笑えないように、重く、重く言葉を吐いた。


「しってるよ」


 彼女は笑ってそう言った。


「わたしは、お父さんとお母さんに、すてられちゃったこと、しってるよ」


 彼女はすべて知っていた。自分が両親に捨てられたことも、どうして自分がこの施設にいるのかも。すべて知っていた。それでも彼女は笑っていた。

 彼女を傷つけるための言葉が、ブーメランのように跳ね返ってきてボクの胸を深く抉っていった。ボクは自分の境遇を自覚していたけれど認めてはいなかった。それが綺麗に笑う少女とボクの違いだった。

 

 少女が言って、ボクはようやく自分が両親に捨てられたことを飲みこめた。その事実はとても苦かったけど、ボクは必死に飲みこんで受け入れた。だからと言って、ボクが笑えるようになったのかと言えばそれは違った。施設では、笑みのような顔を作れるようになったけれど、学校ではそうもいかなかった。

 施設の職員は、ボクが友達と離れ離れになってしまうようなことがあっては可哀相だと配慮してくれたのだろう、ボクが転校するようなことはなかった。けれどそれが仇になった。学校からそう遠くもない施設から登校するボクの姿が、クラスの誰かに見られた。そしてその誰かが誰かにそのことを伝えた。ボクに親がいないことは、クラス中に広まっていた。悪いことに、ボクの両親が罪を犯して警察に掴まったという尾ひれ付きで。

 

 何人かいた友達も去って行った。学校で独りになっていたボクは、やることもなく、暇をつぶすために施設にあった本棚から適当なものを取り出して、本の世界に逃げた。

 カバーも外れてボロボロとなった古臭い小説。そこには難しい漢字も使われていて、二年生だったボクは煉瓦のように厚い辞書を引きながら時間をかけて一冊を通読した。内容なんてほとんど理解していなかったけれど、その本には、ボクと同じように悲劇的な運命を背負った登場人物がたくさんいた。彼らの境遇を知る度にボクは胸を痛め共感した。ボクは本の世界に夢中になっていた。そこに登場する人たちだけが、ボクの味方だと思った。

 施設で生活を共にしている小さな彼らも、ボクと同じはずであるのに、年下ということが原因なのだろうか、味方という気はしていなかった。だから、たとえ現実の人物ではなくても、小説に登場する悲劇的な人たちにボクは仲間意識を抱いていた。


 ボクは授業中でも構いなく本を読み続けた。注意されても無視した。そうしなければ、ボクには味方がいなくなってしまうから、狂ったように本の虫になった。

 ただ本を読む場所であるかのように学校に行っては、朝から夕方まで文字を追った。

 

 そんな日が幾日か続いたある日の放課後、その日もボクは厚い辞書が通行許可書であるかのように手元に置いて、時間も忘れて小説の世界に旅立っていた。


「――ねぇ」


 顔を上げると、腕に生傷を作ったやんちゃそうな男の子が割れんばかりの笑顔で机のすぐ傍に立っていた。

 その彼の笑顔は、クラスメイトが浮かべている、邪なものをまだ何も知らない純粋に満ちたものとも、孤児院で暮らすボクらのような、幼いながらにして世界の暗部を体験してしまった達観の笑いとも違った。彼の笑顔は、降りかかる災難に自ら向かっていくような力強さをもった笑みであった。

 

 ボクは彼の顔に見覚えがあった。なかなか思い出すことができなかったけれど、彼が今とまったく対照の曇りのない青空のような笑顔をしていた風景が不意に浮かんで理解した。

 彼は、半月ほど前、坂の上からビー玉を転がして街中を騒がした少年であった。

 幸せを噛み締めながら母親に叱られていた彼が、一体ボクに何の用なのかと当惑した。


 彼は唐突に自身の境遇を語り始めた。

 始めは両親のいないボクをからかっているのかと腹を立てかけたが、彼の笑みに絶えず浮いていた陰りが、彼の言葉に真実味を付加し、湯だった腹を静めた。この少年は真実を口にしているのだ。それが分かるとボクの体に電流が奔った。

 この世界にも、ボクの味方がいた。そのことが嬉しくて、嬉しくて。一種の感動を受けていたボクに、彼はある提案を持ち出した。


『君と僕、この理不尽な世界を受け入れて、強く生きると互いに誓おう。互いに約束を交わせば、きっと僕たちは強く生きることができる』


 彼はボクの両親の噂を聞いてやって来たのだろう。それでもボクは嬉しかった。本の世界以外に、自分の身の上に共感してくれる人がいるということが、予想以上の感動をもたらした。

 だからボクは、あの日、彼と誓いを立てた。


『理不尽でどうしようもないこの世界で、強く生きていくことを誓います』


 彼と一緒にいると、彼の強さに驚くばかりだった。一度、その源には何かあるのか と尋ねたことがあったが、彼は笑って首を振るばかりであった。それは誰にも言えない大切なことなのだと悟り、それ以後は聞かなかった。


 六年生になって、ボクらとよく似通った待遇の生徒たちと出会った。

 実と涼弥と浩次だ。彼らもなにかに苦しんでいた。それぞれが腹に闇を抱え、そのはけ口を探していた。小説の外にも悲劇が有り触れていた。自分が抱えているものなんて、本当は大したものではないのかと思ったりもした。

 そんなボクたちの間に、言葉なんてものは必要なかった。ボクたちは導かれるように互いの手を取った。手を握り合うと、互いの闇は混ざり合うようにしてより深淵を増し強固になった。

 ボクは強くなれた。あの洞窟に行くようになってから、それを強く実感した。


 ああ、そうか。

 

 玲は、五人で過ごした二か月を思い出す。そこに悲劇なんてものは一切なかった。


 ――六年生になってからだ。

 六年生になって、彼らに会って、きっとボクは変わったのだろう。

 

 玲は、陽平を始め、涼弥、実、浩次がここまで掛け替えのないものであったことを知り、そして、その自身の変容の正体を知れたことで、胸の奥でずっと凝り固まっていた自分の過去が溶け出したかのように思えた。


 ――ボクたちは血の繋がりとかそんな軟なものじゃなくて、心の中で繋がっている。だから、彼らを嗤ったこの教師を許せなかった。


「ボクたちは、お前たちのような大人には絶対に従わない」


 玲は最後にそう吐き捨てて、職員室から飛び出した。廊下を走りながら、潤んだ目元に手をやる。


 ――ボクのプライドなんて彼らの存在に比べれば川に流れる芥でしかない。

 早く謝ろう。


 玲は転げるように靴を履き替え、校庭でサッカーをしている生徒たちの横を駆け抜ける。


 ――たしか、初めて秘密基地に行った日も同じような光景を見たな。


 あのときは五人で彼らを見つめ、今は一人で彼らを見ている。それが無性に寂しく感じて、玲は強く地面を蹴って走った。

 

 校門の先の住宅街は落陽に染まり、東から紺碧の空が迫っていた。

 長く急な階段を滑るように駆け下り、シオハラ邸の路地を直角に曲がる。フェンスを越え緑地に入る。早く皆に会いたい、そして謝りたい。それだけを思って緑地の中を一心に駆け抜けた。

 腐葉土の坂が見えてきて安心をしてしまったのか、玲は倒れていた朽ち木に足をすくわれ顔から地面に放り出される。服が汚れてしまったことよりも、土の味が自分の惨めさを表しているようで嫌だった。土を吐き出して立ち上り、坂を這い上がる。

 洞窟の入り口を前にいざ入ろうとして、手元に灯りがないことを思い出す。

 内部構造は何となく頭に入っているし大丈夫だろう、と玲は洞窟の中へ入って行った。暗く何も見ることができない。明かりもなしにここへ入ったのは、これが初めての経験で少し心細くなった。



               ◆



「おい、なんだよ、今のっ?!」


 額に数粒の汗を浮かべた涼弥が実に向かって叫んだ。

 その困惑顔から、彼自身も現状を把握できていないように見え、実は自分も何が起きたのか分からないと無心に首を振って伝えたそのとき。

 実の目の端に、地下水の水面からぶくぶくと浮き上がってくる水泡が映った。

 涼弥も浮上してくる泡を呆然と眺め、大事な何か思い出したかのように大きく目を見開いて、


「他の二人はッ?!」


 叫び、視線を廻らした。実も釣られて照らされた洞窟を見回すと、すぐにソファーの陰で膝を抱え丸くなっている浩次を発見した。


 ――あんなところで、どうしたんだろう?


 疑問を胸にしながら、実はまだ姿の見られない陽平を探した。

 しかし、どこを探しても陽平の影も形も見当たらない。


 ――大谷くんがいない? それはつまりどういうことだろう? 


 実の頭はようやく回転を始める。


 ――江ノ島くんがいて、大谷くんがいない……。どうして泡が浮いているのだろう?

 それに、さっきのあれはなんだったのだろう? あの、暗闇で誰かがケンカしているかのような物音は?


「こ、浩次!」


 涼弥の声はすがるかのように悲愴であり、その情けない声を聞いた実は衝撃を受け思考を中断させた。

 自分が知っている涼弥はいつも自信に満ちていて、発作のように奇抜なことを口走るけれど、それはとても魅力的なものばかりで、学校のどの先生よりも荘厳な両親よりも、有名大学を出たことを鼻にかける家庭教師よりも、優れている偉大な人だと思えた。しかし、その狼狽える涼弥の姿は、ヒーローが悪役に袖の下を握らせているところを目撃してしまったかのように、長年抱いていた実の理想に亀裂を入れた。


 浩次が膝に埋めた顔を上げる。その目は虚ろで、魂が抜かれたかのように放心していた。


「浩次? 大丈夫か?」


 涼弥の問いかけに答えることなく、浩次は音もなく立ち上がる。木偶のように弱弱しく体を揺すったかと思うと――その巨躯を弾ませて出口へと駆け出した。


「お、おい! 浩次、待てっ!」


 涼弥は抱えていたライトを地面に置き、走り去っていった浩次を慌てて追いかけていく。ぽつねんと暗闇に残された実は、茫洋とした蜃気楼のように辺りを包む暗闇へ視線を這わせる。びっしりと冷や汗をかいた背の数メートルほど先から、ぷくぷく、と小さな泡が弾ける音が聞こえて総毛立つ。このままここにいてはいけないと警鐘が鳴り、転げるようにして涼弥の背を追った。


 お世辞にも痩せているとは言えない浩次であったが、遅れて追いかけた実は勿論のこと、すぐに追いかけたはずの涼弥ですら、壕を抜けるまでその姿を捕らえることはできなかった。

 

 少しずつ、暗闇の奥からオレンジ色の薄日が放射してくる。その光を目に受け、ミカンの汁が染みたかのように眇めながら、実は暗い洞窟から外界へと飛び出た。

外は日が暮れ始めていた。

 木々の合間から見える空は、橙と紫が混和した明るさがあったが、緑地には深い影が勢力を伸ばしていて、夜に備えて自らも暗く染まろうとしているようであった。

 実は涼弥と浩次の姿を木陰の中に見つける。

 洞穴の傍にある枯草が敷き詰められマットのようになった場に、大きな浩次の体を涼弥が組み伏せて押しとどめていた。地面を舐めているかのように顔面を伏した浩次は、もう抵抗する素振りを見せず口から覇気のない声をもらした。


「俺じゃない」


 それを聞いた実は、先ほどの水場での出来事がどのようなものであったのか、そして、どうして陽平はこの場にいないのか、さらに、その陽平をどうにかしてしまった人物が自分たちの中にいることにようやく気が付いた。それはテレビに流れている戦場をよく見てみたら、自分の家の近所であったかのように、突然、事件の渦中に放り込まれた衝撃が実の頭を殴りつけた。


「俺じゃない!」


 浩次がもう一度同じセリフを叫び、身を捩じって動き出そうとするのを涼弥が必死になってなだめすかした。その二人にわたわたと視線を行き来させながら、つい五分ほど前の出来事を今一度再生させた。


 ――誰かが暗闇に乗じて大谷くんに掴み掛かって、地下水溜まりへと叩き落とした。僕がその実行者ではないことだけは断言できる。でもそれは、自分以外の二人、涼弥くんか江ノ島くんのどちらかがその『犯人』ってことに……


 浩次の呼吸はゆっくりと鎮まっていく。涼弥は浩次から離れて実に空空しい苦笑いを寄越し、ふぅと息を吐きメガネの位置を直した。彼ならこの出来事を丸く綺麗にまとめることができるはずだと、実は思索に耽るように黙り込んだ涼弥へ期待の色が籠った熱い視線を注いだ。

 涼弥は、地下壕の入り口を一度だけ見やり開口した。


「さっきのことは、俺たちだけの秘密にしよう」


 実は文字通り耳を疑い、木の影が落ちて表情が見えない涼弥の顔を見返した。


「俺たちが黙っていれば、さっきの『あれ』は明るみに出ない」


 自分たちの中に陽平を突き落とした犯人がいる。そのことを涼弥が気付いていないはずはない。その黙過的な提案に、もしかしたら彼が実行したのではないのかと不審を抱いて、起き上がる浩次を引っ張り上げる涼弥に言った。


「大谷くんは、どうなるの? 今から戻れば、まだ――」


 涼弥は手をかざし、その先の言葉を制した。実との間に立てられた涼弥の手の平からは、釈迦のものであるかのように有無を言わせない凄みが端々からあふれており、実は思わず閉口してしまう。


「あの物音を聞いただろ。あの様子じゃあ陽平はもう……」


 もう、の続きは何なのだと激しく問い質したい衝動に駆られる。それでも実は一縷の希望を手放すことができなかった。気が動転してしまっていて正しい判断が下せていないから、涼弥は友達を見捨てるようなことを言っているのだと自分自身を説得し、頻りに洞窟を顧みている涼弥へ言う。


「だ、大丈夫だって。僕たちだけで不安なら、誰か大人の人に連絡すれば」


 実の声は尻すぼみになって消えて行った。眼鏡の奥に構えている涼弥の瞳が、夜空に冴えた月のように威圧的な眼光を帯びていたからであった。雨露に晒された子犬のような心境の実に、棄てた子犬を見送る元飼い主のような冷たい視線を向け、涼弥は抑揚を静めた声を放つ。


「警察や親に連絡すれば、俺たちが防空壕に入っていたことがバレるだろ」


 実の細い肩が、ヒク、と上がる。涼弥は、陽平の心配よりも自身の身の内を心配しているのだと知れたその瞬間、彼に対する評価は、手の平を返したかのように失望へと変わった。昔からの憧れが大きかった分、崩れたときの反動も大きかった。

 心の支柱が音を立てて崩壊を始めたさなか、ぼそぼそと浩次が呟いた。


「内田は知ってるぞ、今日俺たちがここに来たこと」


 その浩次の声は、実の耳を通り抜けて行った。目標が消え去り向かうところを失くした実は、忘我したかのようにこれ以上口を出すこともしなかった。もはや陽平のことなど頭から消え失せてしまっていた。それほど彼にとって涼弥という存在が巨大なものであったと物語っている。


「そんなもの適当な言い訳を言って、今日来なかったことにすればいい。――お前ら、明日はちゃんと口裏を合わせろよ」


 そう二人に口止めをして、涼弥はいち早くここから逃れようと腐葉土の坂を下りて緑地を進んでいった。



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