ウの物語 『白猫と黒猫』
水煙のけぶる街。
その街の片隅にあるおんぼろ橋の橋脚に、一匹の白猫がいました。
その毛は所々茶色くくすみ、一見するだけではとても白い猫に見えませんでした。
白猫は雨に濡れた毛を舐め、いつ上がるとも分からない灰色の空を見上げていました。
そこへ、一匹の雄猫が黒い毛をびしょびしょに濡らして駆け込んできました。黒猫の首には、綺麗に輝くガラス玉の装飾が施された首輪が着けられていました。
白と黒。二匹の猫が出会います。
黒い猫が言います。
「君はここで何をしているのですか?」
白い猫が答えます。
「私はここで雨宿りをしています。あなたはここへ何をしに来たのですか?」
黒い猫は返します。
「僕は逃げて来たのです」
白猫は首を傾げます。
「一体、何からですか?」
黒猫は雨粒が光る毛を舐め「飼い主からです」と答えました。
白猫は黒猫の全身に細かい傷があることに気付きました。
赤く血の滲む肌を黒猫は赤い舌でべろべろと舐めています。
白猫は灰色が垂れ込める空を仰ぎます。
そして、かつて自分にも飼い主がいたことを思い出します。
どのような顔であったか、それはもう灰色の雲のように判然としませんでしたが、温かいミルクを毎日与えてくれたことは鮮明に覚えていました。
「この街は、私たち猫にとって理不尽なことばかりですね」
白猫はそう言いました。
「そうですね」
黒猫もその意見に同意しました。
雨風が吹き込み、二匹の猫を濡らします。
「どうして私は捨てられてしまったのでしょう」
白猫は自分がそう呟いていたことに驚き、慌てて黒猫の方を見ました。黒猫は相変わらず傷口を舐めており、心の内を聞かれていなかったことに白猫はほっとしました。
「強く――」
唐突に黒猫が口を開きました。ぎょっとしている白猫を余所目に黒猫は続けます。
「強くなりたいですか?」
どのような思惑があって黒猫がそう尋ねたのか、白猫には皆目見当もつきませんでした。しかし、白猫は無意識の内に頭を縦に振っていました。
ころころと頭を振る白猫を見て黒猫は笑い、言いました。
「それなら僕と約束をしましょう」
白猫は小さく頷いてから「どのような?」と尋ねました。
「君と僕、この理不尽な街を受け入れ、強く生きると互いに誓い合いましょう」
――互いに約束を交わせば、きっと僕たちは強く生きることができると思います。
黒猫が傷だらけの前足を上げます。白猫はその足に自分の足を重ねます。
二匹の猫は誓います。
『理不尽でどうしようもないこの街で、強く生きていくことを誓います』
雨が上がりました。
けれど、空は依然として灰色の雲を一面に湛えています。
黒猫は重ねていた足を離し、首輪からガラスの玉を外して白猫に差し出します。
「今日という日を忘れないために、君にこれをさし上げます」
白猫はそれを受け取り、よくよく観察をします。そこには、黒猫の名前らしきものが彫られているようでしたが、白猫にはそれを読むことができませんでした。
そうしている内に、黒猫は何も言わず橋の下から出ていってしまいました。
黒猫は決して後ろに振り返りませんでした。
黒猫がどこへ向かうのか、それは分かりません。
飼い主のもとへ戻るのかもしれませんし、どこか別の当てがあるのかもしれません。
曇天を衝くようにピンと立った黒い尻尾を、白猫は無言で見送ります。黒猫の背が草陰に消え尻尾も隠れてしまうと、白猫は灰色の空を見上げました。
そして、いつかきっと現れる青い空を、おんぼろ橋の下で待つことにしました。
玲が唇をすぼめ、ロウソクの火を消した。
また一つ明かりが落ち、涼弥の背後にある海賊の人形が不気味に浮かび上がった。
実は先ほどからそれを極力見ないように心掛けていたが、どうしても目はそちらへ向いてしまう。
初めてここを訪れた際に幻視した、蠢く闇。
その闇が消えて行った先に建てられていた、妖気漂う寂れた祠。
他の四人はこの祠のことをまったく気にかけていなかったので、実も次第にその存在に慣れていったのだが……百物語をしているという現在の状況が、彼の畏怖心を再び喚起させた。
実は海賊の人形から睨まれているような威圧感を受け、身を震えさせていた。
――祠の神様が、僕たちがここを荒らしていると思って怒っているのかも……
そのような猜疑がますます彼の矮躯を締め上げた。
おい、と左隣の陽平が実の肩を小突いたことで、その硬直が解ける。
「実の順番だけど、大丈夫か?」
陽平が心配そうに実をうかがう。
ロウソクに照らされたその顔は仮面のように白く、昔観た映画に登場した怪人を思わせた。
実は分からない程度に首を振り、滔々と語り始めた。