イの物語 『ある雪国の話』
ある雪国での話。
一人の若者が息も絶え絶えに白銀の世界を進んでいた。
眼前を斜めに通過する大粒の雪が視界を霞ませ、彼は何度も意識を落としかけた。
感覚を失い棒きれとなった彼の足に、何か固いものが引っ掛かり雪の上にうつ伏せに倒れ込む。
若者はこのまま死んでしまおうとも思った。が、吹雪を縫って聞こえてきた人のうめき声のようなものを聞いて、緩慢に顔を持ち上げた。
それはまさしく僥倖と言えた。
若者の倒れていた先に、小さな小屋があったのだ。
その窓には暖かな明かりが揺れていた。若者はまだ天が見放さなかったことに深く感謝し、這いながら小屋の中へと転がり込んだ。
唐突に小屋に入ってきた彼を見て、屋内にいた三人の男たちは眼球が飛び出るのではないかというほどに驚いた。
若者は、吹雪が止むまでの間でいいので小屋に居させて欲しい旨を一心に伝え、何とか三人から了承を得ることができた。三人の男は彼に肉の入った温かい汁物を与え、労を労った。若者はやけに固い肉を頬張りながら、男たちの話を聞いた。
何でも、男たちもこの吹雪の所為で足止めを食らってしまい、食料も今若者が口にしている汁物が最後であったらしい。
若者は最後の食料を与えてくれた男たちに心から感謝し、その言葉を包み隠さず素直に述べた。男たちは曖昧な笑みで若者の謝辞を受けた。
吹雪は止む気配を見せることなく吹き続けた。若者は疲弊しきり、時折、戸の向こう側から獣のうめき声のような幻聴を聞くようになった。その唸りが聞こえる度に、どうしてか三人の男たちは血相を変えて取り乱していたようであった。
ついには、火種も途絶えてしまった。
若者の全身から感覚が消え始めたとき、男の内の一人がある提案をした。
――このままでは、全員が命を落としてしまう。動かずにいれば神経が鈍り何時意識が途切れてしまうかも分からない。ちょうど、ここには四人いる。吹雪が止むまでの間、小屋の四つ角にそれぞれが座し、肩を叩かれたら今度は自分が叩きに行く、という風に順繰りに回って互いを鼓舞するというのは如何だろうか?
若者はなるほどと思った。その方法ならたとえ寝込んでしまっても、他の者に起こしてもらえるため凍え死ぬことは免れる、と。
若者と男たちは小屋の角で横になり、その方法を繰り返して互いを励ましあった。
若者は幾度も意識を落としては、肩を叩かれ救われたか分からない。ただひたすらに、肩を叩かれたら身を起こして先方で寝ている人物の肩を叩きに行く、と心奥に刻み込み朦朧とした足取りでその行為を繰り返した。
ふと、この行為に対する疑問が彼に訪れた。
――四人で四つ角を回る?
麻痺した神経がそれ以上の詮索を許さなかった。
やがて若者は肩を叩かれても気付くことなく、深い眠りに落ちて行った。
窓から射し込む陽光で若者は目覚めた。
そして自分が寝ていたことに驚き、次に吹雪が止んでいることに歓喜して、喜びのあまり疲れも忘れて外へと飛び出した。
吹雪は止み、暖かい日差しが白雪に反射して若者の目をすぼませた。
生きていることが本当にありがたいと、彼は大いなるものに感謝を捧げた。
不意に、目線の先に何かが映り彼はそれを凝望した。
白い雪の中に埋まる赤黒い何か……
若者はそれに近寄り、視認し――戦慄した。
それは、人の腕部であった。
雪と同等に白く骨ばった腕に反して、かつて胴体部と接合していた断面は赤黒く凝固した血液がこびり付いていた。
若者は、小屋を訪れた際の男たちの態度や、馳走された汁物に入っていたあの嫌に固い肉からある連想をし、途端に胸まで込み上げてきた吐瀉物を吐き出した。
そう、あの三人の男たちは元々四人であったのだ。
男たちの間にどのような禍根があったのか知る由もないが、吹雪に見舞われ食料が尽きた男たちは、誰か一人を犠牲にすることを選んだのだ。力の弱い痩身の者が選ばれたのであったのだろう。肉付きの悪かった腕は、ここに棄てられたのだ。
雪に撒かれたヘドロのような嘔吐物を呆然と眺め、あの肉はとうの昔に自身の体内に吸収されていることを知り、若者は再び嘔吐した。
胃酸で焼かれた喉から饐えた臭いのする吐息が抜けた。それで急激に現実に連れ戻され、頭中で感じていた疑問が音を立ててはまっていった。
――四人で四つ角を回ることは、果たしてできるのであろうか?
若者は頭の中で、出口のない箱の中を順番に回っていく四匹の鼠を空想する。
けれどそれは上手くいかない。
四角い箱を延々と回るには、どうしてもあと一匹必要になるのだった。
その行為の構造を理解した若者の背筋を、ぞわりぞわり、と悪寒が這い上がった。
彼は痙攣するように呼気と吸気を繰り返し、ゆっくりと背後の小屋を振り返る。
仄暗い屋内の三つの角には、三人の男たちが眠るようにして横になっていた。まだ息があるのか、横臥した彼らの肩は小さく上下している。
そして、残りの角。先刻まで自身がいた角に視線を合わせ――
若者は無我夢中で駆けだした。
見る見るうちに小屋は小さくなっていく。
何もかも忘れ、口から涎を垂れ流し、若者は雪上をもがくように走り抜けた。
最後の角。
角。
角にいた――
頭。
あっ、と若者は『何か』に足を取られて雪の上にうつ伏せに倒れる。
若者はその場で倒れたまま動かなかった。
――今、私は何につまずいて転げたのだろうか?
それを確認するのが恐ろしく、若者は何時までも雪の上に倒れ込んでいた。
ふっ、と涼弥がロウソクを吹き消す。
灯心から尾を引いた煙が伸び、暗闇へと雲散していく。親族の悲報に接したかのように低迷した雰囲気が漂い、拝聴していた四人はそれに飲まれていた。
場の空気を作り出すことをさせれば、涼弥を超えるものはそういないのだろう。
満足げな涼弥は髪を吹き、目で浩次へ続くように合図を送った。
浩次は音を立てて唾を飲みこんだ。恐怖しているというよりは、涼弥の後に続く話がはたして自分にできるのか、という懸念の方が彼の心中を占めているようであった。
浩次はもう一度、唾を飲み下す。
瞳を閉じ、大きく息を吸う。腹の中に湧く闇を吐き出すように口を開いた。