第三十五話 皮膚の続き
秋が深まった頃、ヨシコさんのサポーターが外れた。
特に何も言わなかった。ある朝、サポーターなしで来た。それだけだった。
でも、手首の動きが、前と少し違って見えた。
以前より、ゆっくり動いていた。丁寧に、という言葉が近い。手術の前は、四十年分の自信でまっすぐ動いていた。今は、確かめながら動いている。
どちらが正しいか、私にはわからない。でも、どちらも本物だと思った。
若田さんから連絡があった。
「また宇宙に行きます」という内容だった。
次のミッション(任務)が決まったらしい。今度は百五十日以上の滞在予定だという。
私は城島さん経由で返信した。
「また縫います」と。
城島さんから「若田さんが笑っていました」という返信が来た。
その日の午後、ヨシコさんが私を作業台の前に呼んだ。
特に何かがあるわけではなかった。いつもの観察の時間。生地のサンプルを触る。
でも、ヨシコさんが言った。
「縫ってみて」
「え?」
「ここ。試作品の縫い始めを、あんたがやってみて」
私は少し固まった。
練習ではなく、本番の試作品。
「……失敗したら」
「やり直せばよか。でも、多分失敗せん」
私はヨシコさんを見た。
ヨシコさんは私を見ていた。
椅子に座った。
生地を置いた。
ペダルに足を乗せた。
深呼吸をした。肩の力を抜いた。
縫い目ではなく、先を見た。
踏んだ。
生地が動いた。針が下りた。縫い目がついてきた。
真っ直ぐではなかった。でも、蛇行していなかった。
生地が、素直だった。
ヨシコさんが縫い目を見た。
少し黙った。
「合格よ」
「……本当ですか」
「嘘をついてどうする」
私は縫い目を見た。
自分の手が縫った、本番の縫い目。
ガタついていない。でも、ヨシコさんのように均一でもない。
それでいい。これが今の私の縫い目だ。
夕方、全員が帰った後、工場に一人残った。
いつものことだった。でも、今日は少し違った。
私は自分のノートを開いた。
書いた。
今日、本番の縫い目を入れた。ヨシコさんが合格と言った。
指先が起きている。身体が覚えている。頭より先に、手が動いた。
ペンを置いた。
窓の外が暗くなっていた。
工場の灯りの中に、ミシンが六台並んでいる。全部電源が切れている。でも、ある。
祖母のノートの最後の一文を、私は暗記していた。
今年の二月、祖母が最後に書いたもの。
四十年縫って、一番良かったことは、縫ったものが誰かの皮膚の続きになったとき。
それだけで、十分だと思う。
私はノートにペンを走らせた。
今日の日付。
そして一文。
それだけで、十分だと思う。
同じ言葉だった。
でも、私の言葉だった。
ミシンの電源が、全部切れている。
でも、音が聞こえる気がした。
低くて、規則的で、体の奥に響く。
この工場の音が、私の中に入っていた。
皮膚の続きに、なっていた。
完
この作品はフィクションです。登場する人物・団体・組織名はすべて架空のものであり、実在の人物・団体・組織とは一切関係ありません。なお、作中に登場するJAXA(宇宙航空研究開発機構)は実在の組織名を使用していますが、描写される人物・事業内容・依頼内容はすべて架空のものです。




