第一話 ミシンの音がした
この作品はフィクションです。登場する人物・団体・組織名はすべて架空のものであり、実在の人物・団体・組織とは一切関係ありません。なお、作中に登場するJAXA(宇宙航空研究開発機構)は実在の組織名を使用していますが、描写される人物・事業内容・依頼内容はすべて架空のものです。
博多行きの新幹線は、定刻通りに動いた。
私は窓際の席で、膝の上に何も置かずに座っていた。本も、スマートフォンも、出す気になれなかった。ただ景色が後ろへ流れていくのを見ていた。田んぼ。防音壁。名前を知らない川。全部が等速で消えていく。
東京を出て、三時間が経つ。
退職の手続きは、思ったより簡単だった。書類を出して、パソコンを返して、セキュリティカードを返納した。送別会はなかった。正確には、断った。あの種の集まりが苦手だった。感情を演じるのに、もうエネルギーが残っていなかった。
祖母が死んだのは、先週の火曜日だ。
享年七十九。老衰。苦しまなかったと、母から連絡が来た。私は「わかった」と返信して、それから三分後に退職届を人事に送った。順番としておかしいのかもしれない。でも、そうなった。
実家は久留米市の外れにある。
駅からタクシーで二十分。車窓から見える風景は、子供の頃と大して変わっていなかった。変わったのは、シャッターの閉まった店が増えたことくらいだ。
母は玄関で私を迎えた。
「遅かったね」
「新幹線の時間、伝えたけど」
「そういう意味じゃなか」
それだけ言って、母は中へ入った。私も入った。築四十年の家は、古い畳と醤油の匂いがした。懐かしいとは思わなかった。ただ、そういう匂いだと思った。
葬儀はすでに終わっていた。小さな家族葬。私は間に合わなかった。間に合わせようとしたかどうか、自分でもよくわからない。
翌日、祖母の家へ行った。
母の実家。今は誰も住んでいない木造の平屋。玄関の鍵は昔から南京錠で、番号は私の誕生日だった。それを知ったのは今日で、少し居心地が悪かった。
中は、思ったより片付いていた。
祖母は物を溜める人ではなかった。茶箪笥、ちゃぶ台、古い座椅子。それだけで部屋が成立していた。窓際にミシンが一台。黒くて重そうな、業務用に近いやつ。電源を入れたら動くのかもしれない。試す気にはなれなかった。
遺品整理は、段ボール三箱で終わった。
衣類。食器。古いアルバム。私が子供の頃に描いた絵が、一枚だけ仏壇の引き出しに入っていた。クレヨンで描いた、何かの動物。何を描いたのか、自分でも判別できなかった。
最後に、押し入れの奥からノートが出てきた。
一冊ではなかった。束だった。同じ大学ノートが、十数冊。背表紙に年号だけ書いてある。一番古いのが一九九八年。一番新しいのが、今年の二月。
私は適当に一冊を開いた。
最初は、何が書いてあるのかわからなかった。
数字と、短い文章が交互に並んでいる。
三月四日 湿度六十一パーセント 室温十八度
Aさん。今日は左肩が三ミリ落ちていた。生理前か、または睡眠不足。生地の当たりを左側だけ〇・一調整。本人は気づかない様子。
三月七日
新しい素材サンプル。手触りは良いが、体温を持ちすぎる。長時間着用で皮膚がストレス(負担)を感じる可能性。却下。
三月十一日 Bさん(五十二歳)
呼吸が浅い。胸郭の動きが小さい。おそらく長年のデスクワーク(机仕事)。バストの当たりを〇・三上げると、自然に胸が開く。試着後、本人が「なんか楽」と言っていた。理由はわかっていない様子。
私はページをめくる手を止めた。
祖母は、データ(記録)を取っていた。
ただし、センサー(感知機器)ではなく。アルゴリズム(計算手順)でもなく。自分の目と、指先で。
私が東京でやっていたことと、構造が同じだった。対象が「人間の感情」で、ツールが「機械」か「身体」かという違いだけで、やっていることの本質は――
考えかけて、やめた。
たぶん、そんなに綺麗な話じゃない。
ノートを持ち帰ろうとしたとき、挟まっていた紙が落ちた。
静へ
読んだら、一度だけ工場に行きなさい。
断っていい。でも、一度だけ。
――フミ
フミ、というのは祖母の名前だ。
私はそのメモを三十秒見ていた。
祖母が私にメモを残すような人間だったかどうか、正直よく覚えていない。多くを語らない人だった。私が無言でいても、何も聞かなかった。ただ、台所で何かを作りながら、ミシンを踏みながら、同じ空間にいた。それだけで、子供の頃の私には十分だった。
東京に出てから、連絡はほとんどしなかった。
祖母は毎年、下着を送ってきた。地味な、機能的な、色気も何もない白かベージュのもの。最初は押し入れに突っ込んでいた。でも気づいたら、それしか着ていなかった。フィットするというより、存在を主張しなかった。着ていることを忘れられた。
最後に連絡したのは、いつだったか。
思い出せなかった。
翌朝、私は工場へ行った。
正直に言うと、断ろうと思っていた。でも母と朝食を食べながら、二人で十分間、一言も話さなかった。その沈黙に負けた形だ。
工場は、街の外れにあった。
看板が出ていなければ、廃屋と見分けがつかない。駐車場には軽トラが二台。建物の壁は色が褪めていて、窓ガラスの一枚にヒビが入っていた。
引き戸を開けると、音が来た。
ミシンの音。複数。低くて、規則的で、どこか体の奥に響く周波数だった。
中には、女性が六人いた。全員が五十代以上に見える。全員が手を止めなかった。
奥から男性が出てきた。六十代。小柄で、頭が薄い。
「香月フミさんの、お孫さんね」
「はい。遺品の返却に来ました」
男性――社長らしい――は、私が差し出した小さな紙袋を受け取って、少し黙った。
「フミさんね、最後まで来よったよ」
「……工場に、ですか」
「サンプルを縫っとった。死ぬ二週間前まで」
私は何も言えなかった。
「あの人ね、ただの元工員じゃなかったけん」
「型紙師として、この業界で知らん人はおらんかった。三十年前の話やけど」
帰ろうとしたとき、気づいた。
工場の隅に、古いパソコンが三台並んでいる。在庫管理のシステムらしい。画面を見た瞬間、頭の中で何かが反応した。
二十年前のインターフェース(操作画面)。エラー(異常信号)のログ(記録)が四件、放置されている。発注データ(注文情報)のテーブル(一覧表)が壊れかけている。これは近いうちに在庫事故を起こす。
私は気づかないふりをしようとした。
できなかった。
「これ、触っていいですか」
「システム(管理装置)、壊れかけてます。このまま放置したら来月中に発注ミスが出ます」
社長は目を細めた。
「わかるの?」
「仕事でした」
椅子を借りて、座った。
二時間後、エラー(異常)は全部消えた。発注テーブル(注文一覧)を修正して、簡単なバックアップ(予備保存)設定を入れた。
立ち上がったとき、ミシンの音が止まっていた。
職人たちが、全員こちらを見ていた。
一番手前にいた女性――七十代に見える、白髪を後ろで束ねた小柄な人――が、無表情で言った。
「なんね、その速さ」
褒めているのか、引いているのか、判断できなかった。
「明日も来るか」
社長が言った。
私は少し間を置いた。
ミシンの音が、また始まった。
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