第七話(王太子視点)
兄の棺は、静かだった。
ただ眠っているだけのように見えるその顔は、
もう二度と瞼を動かすことはない。
アウグスト。
七つ年上で、誰よりも聡明で、誰よりも優しかった兄。
碧い瞳はいつも穏やかで、
叱るときでさえ、怒りより先に「考えろ」と言う人だった。
その瞳を、私はもう二度と見ることができない。
母は棺に縋りつき、声を上げて泣いていた。
肩を揺らし、言葉にならない音を漏らしながら。
その横で、私はただ立っていた。
泣き方が、分からなかった。
胸の奥が空洞になったようで、
何か大切なものが、すっぽり抜け落ちた感覚だけが残っていた。
――そして、私は王太子になった。
儀式の日、母は一度も私の目を見なかった。
祝いの衣を纏い、祝福の言葉が並ぶ中で、
母の表情は、喜びではなく「耐える」ものだった。
儀式が終わった瞬間、
母はそのまま部屋に引きこもり、二度と姿を見せなくなった。
父は言った。
「お前は、アウグスト以上でなければならない」
何度も。
繰り返し。
まるで呪いのように。
そのとき、私は理解した。
自分は“代わり”なのだと。
兄の代わり。
理想の代わり。
期待の代わり。
その重さに息が詰まりそうになった頃――
彼女に出会った。
ヴァレリア。
公爵家の令嬢で、
まだ幼くて、無防備で、
けれど、そこにいるだけで空気が柔らぐ少女。
彼女は、私を王太子として扱わなかった。
ただ普通に笑い、
普通に話し、
普通に隣にいた。
「殿下、お顔が強張っていますわ」
そう言って、
何でもないことのように手を差し出してくれた。
その手を取ると、
胸の奥のざわめきが、少しだけ静まった。
私は、彼女に会うことで呼吸ができた。
だから、ヴァレリアは――
私の特別になった。
彼女がいない時間が、不安になった。
彼女が笑うと、世界が少しだけ優しく見えた。
――それなのに。
ある日を境に、彼女は姿を消した。
会えない。
手紙も返ってこない。
屋敷を訪ねても、理由を告げられず追い返される。
拒絶されたのだと思った。
それでも、忘れられなかった。
八年ぶりに社交の場で再会した彼女は、
息を呑むほど美しくなっていた。
声をかけようとして、足が止まった。
近づけば、また拒まれる気がして。
そのとき、聖女が転んだ。
シャンパンが零れ、
悲鳴が上がり、
責める視線が一斉に向いた。
――ヴァレリアに。
彼女は、何もしていなかった。
ただ、そこに立っていただけだった。
それなのに。
聖女は震え、
周囲は騒ぎ、
彼女は「悪女」と囁かれた。
その光景を見たとき、
私の中で、何かが壊れた。
――あの女に騙されるな。
あれほど美しいのは、罠だ。
あれほど静かなのは、計算だ。
そう思わなければ、
彼女を失った自分を、許せなかった。
だから私は、信じた。
ヴァレリアは悪女なのだと。
そうでなければ――
私は、間違っていたことになるから。
国王である父の癇癪が酷くなったのは、
聖女の癒しを受け始めてからだと、私は思っている。
聖女の癒しは、確かによく効くらしい。
だが、その時間は短い。
効いている間、父は穏やかで、寛大で、
まるで理想の王のように振る舞った。
だが、癒しが切れた途端、
その反動は以前よりも激しくなった。
怒りは衝動に変わり、
苛立ちは癇癪になり、
やがて父は、王としての格を失っていった。
癒しに縋った結果、
父は“自分で立つ力”を失ったのだ。
聖女は、いつも青白い顔をして王宮に現れた。
足取りはおぼつかず、
ふらふらと歩いていることもあり、
思わず、その身体を支えたこともある。
それほどまでに、聖女は消耗していた。
ある日、父は言った。
「聖女の力が、弱まっている」
そして、こう断じた。
「誰かが、聖女の力を妬み、奪っているのだ」
聖女は選ばれし存在であり、
その力は本来、衰えるものではない。
ならば理由は、ひとつしかない。
聖女のそばにいる“誰か”が、
その力を吸い取り、蝕んでいるのだと。
聖女の力が、他者によって奪われる。
そんな話は、聞いたこともなかった。
正気を失ったように見える父の背中を見つめながら、
私は理解しようとした。
理解しなければならないと思った。
父が狂っているのではないと、
そうであってほしいと願ったからだ。
私は文献を漁り、神殿に通い、
聖女の力についての知識を、さらに蓄えようとした。
そして、国王がヴァレリアを断罪した、あの瞬間。
あれは突発的なものだった。
計画でも、熟考でもない。
ただの――
国王の癇癪だった。
私は、ヴァレリアを見つめていた。
縋ってくれと思った。
私を見てくれ。
私に縋ってくれ、と。
だが、ヴァレリアは。
淡々としているように見えた。
何も求めず、
何も訴えず、
ただ、そこに立っているだけだった。
そんな彼女を見ていると、
私の中に、理解しがたい怒りが湧いた。
どうして。
なぜ。
なぜ、私を必要としない。
気づけば私は、彼女を罵っていた。
悪女だと。




