第二十二話(完結)
お父様は私の背を抱き寄せたまま、ふいに身体ごと持ち上げた。
足が床を離れる。
驚く間もなく視界が揺れて――次の瞬間、私はソファへ運ばれていた。
お父様が腰を下ろし、私はその膝の上に収まる。
子どもの頃みたいに。
あまりに自然で、頭が追いつかない。
泣き止むどころか、涙はさらに溢れた。
堰が切れたように、身体の奥から熱いものが込み上げる。
「……お父様」
呼んだだけで、喉の奥が震えた。
お父様は何も言わず、私の髪を撫でた。
それだけで、胸が壊れそうになる。
ソファの左右に、ユリウスとルキウスが立った。
家族の輪郭が、私を囲む。
囲まれているのに、守られているのに、涙が止まらない。
私は泣いた。
言葉が崩れて、呼吸が崩れて、ただ泣いた。
会えた。
生きていた。
迎えに来てくれた。
それだけで、十分だった。
「姉上」
ユリウスが身を屈め、私の髪に指を通し――そのまま、額に口づけを落とした。
軽いのに、熱が残る。
「……っ」
驚いて瞬きをすると、背後からルキウスが私の頬に触れた。
涙の跡を、指先で確かめるみたいに撫で――その涙に、静かに口づけを落とす。
「リア」
噛み締めるような声だった。
「こんな気持ちにさせるくらいなら」
「父上の提案を断って、最初からずっとリアの側にいればよかった」
責めではない。悔いだった。
大切なものを一度でも手放した自分への、悔い。
私は首を振ろうとしたのに、うまく動かなかった。
涙と息で、身体が言うことを聞かない。
ユリウスが、にっこり笑った。
「姉上、追放とかなんとかは」
「父上が全部うまくやったから、大丈夫だよ」
うまく。
その言葉が、胸の奥で引っかかった。
「……うまく?」
掠れた声が、やっと出た。
追放。
悪女。
恥。
あれは私の罪だったはずで、私はずっと、そう思って生きてきたのに。
分からない。
分からないのに、問い返すのが怖い。
この瞬間を壊したくなくて。
お父様は私の背を抱いたまま、淡々と――けれど確かな強さで言った。
「帰ろう、ヴァレリア」
その一言で、心が揺れた。
帰る。
その言葉は、私の中でずっと遠いものだった。
私は頷いたのか、ただ震えただけなのか、自分でも分からない。
でもお父様はそれを“頷き”として受け取ったみたいに、私を抱く腕を少しだけ強くした。
ふと、ルキウスの視線がルチアへ移った。
ソファの近くで立ち尽くしたまま、落ちた新聞すら拾えずにいるルチアへ。
冷たくはない。
けれど判断の目だった。
「聖女ルチア」
名を呼ばれた瞬間、ルチアの肩が小さく跳ねた。
顔色が、すっと白くなる。
「そなたの忠誠に感謝する」
「この小屋を与えよう」
ルチアの唇が震えた。
声が出ない。目だけが大きく開かれて、私を見る。
嫌だ、と言いたいのに言えない。
ついて行きたい、と言いたいのに言えない。
ユリウスが追い打ちみたいに明るく言った。
「嫌なの?」
「この小屋の価値がわからないの?」
ルチアの指が胸元で握りしめられる。爪が白くなるほど。
「外観も本来の姿に戻して渡すし」
ユリウスは肩をすくめるみたいに言って、
「問題ないだろ?」
ルチアは小刻みに震え、口を開こうとしては閉じた。
言葉が喉でつかえて、形にならない。
――この小屋のあちこちに、私の隣で嬉しそうに笑うルチアが残っている。
八年間の奉仕のあと、ようやくここで“普通”になれた、その時間が。
私はお父様の胸から顔を上げた。
涙でぐしゃぐしゃのまま、息を整えようとして――整わないまま、言った。
「……ルチアは」
声が震える。
「ルチアは、もう……私の妹のようなものです」
ルキウスの眉が、ほんの少しだけ動いた。
ユリウスも、きょとんと瞬きをする。
胸が痛いのに、それでも言葉にしないといけなかった。
「ここまで一緒にいました」
「ここまで一緒に生きました」
ルチアが堪えきれなくなったみたいに、私へ縋りついた。
子どもみたいに、震える腕で。声にならない声で。
私はその手を取った。
「ルチアが私といたいと言うなら」
「……私も、一緒にいたいと思います」
言い終えた瞬間、空気が止まった。
ルピウス家の男たちは、すぐには頷かなかった。
不満がないわけではない。
その“間”が、すべてを語っている。
けれど――お父様は私の髪をもう一度撫でて、短く言った。
「分かった」
裁定の言葉なのに、優しかった。
ルキウスは一度だけ目を伏せ、次に顔を上げて言った。
「リアが望むなら」
ユリウスは少し不満げに口を尖らせてから、すぐに笑った。
「姉上がそう言うなら、まあ」
その言葉で、胸の奥がふっとほどけた。
笑うべきなのか泣くべきなのか分からなくて、私は結局また涙を落とした。
お父様は私を抱き上げ直した。
立ち上がる気配。出発の気配。
「帰るぞ」
その声が、私の世界を決めた。
私はもう、追放されたままの娘ではない。
悪女のままでも、聖女のままでもない。
ただ――家に帰る娘になる。
扉の向こうの春の光が、眩しかった。
私はお父様の腕の中で目を閉じて、もう一度だけ呟いた。
「……お父様」
返事の代わりに、抱く腕が強くなった。
その強さが、答えだった。
外へ出ると、空気が変わった。
町の匂い。パンと湯気と草の匂い。
それが、ふいに遠ざかる。
私たちは人目を避けるように、町外れへ向かった。
道は整えられているのに、どこか“意図的”な静けさがある。
鳥の声さえ、手前で止まるみたいだった。
「……この先だよ」
ルキウスが短く言った。
私は顔を上げた。
見覚えのあるはずの森が、見覚えのない角度で立っている。
森の入口には、何もない。
門も、看板も、番人も。
ただ、木々が――不自然なほど美しかった。
枝の流れが整いすぎている。
葉の重なりが、まるで絵の具で塗ったみたいに均一だ。
光が差し込む場所まで、計算されたように柔らかい。
「……森が、綺麗」
思わず漏れた声に、ユリウスが嬉しそうに笑った。
「森アートだよ」
「姉上、これ、父上がずっと……」
言いかけて、ユリウスは口をつぐんだ。
言ってはいけないことがある、と顔に書いてある。
私はそれ以上訊けなかった。
訊いた瞬間に、何かが壊れる気がした。
一歩、森へ入る。
――世界が、ひとつ音を落とした。
町の気配が消える。
代わりに、湿った土の匂いと、苔の匂いと、冷たい水の匂いが立ち上がる。
私の中の記憶が、勝手に反応した。
ここは、知っている。
知らないはずなのに、知っている。
二歩、三歩。
木々の隙間に、白いものが見えた。
最初は光だと思った。
次に石だと思った。
そして――建物だと理解した瞬間、胸が詰まった。
「……嘘」
声にならない。
邸宅があった。
見間違えようがない。
門の形。石畳の敷き方。壁の色。窓枠の曲線。
庭の配置すら。
「……ルピウス邸」
私は呟いた。
呟いた途端、涙がまた溢れた。
お父様は何も言わない。
言わないまま、私を抱いた腕だけが揺れない。
私は目を離せなかった。
一つ一つ確認するみたいに視線を走らせた。
あの噴水。
あの蔦。
あの薔薇の支柱。
玄関までの段の数。
全部、同じだ。
追放されたはずなのに。
家は、ここにある。
入口に近づくと、扉が開いた。
中から、人が――出てこない。
代わりに、扉の奥に“列”が見えた。
左右に、ずらり。
見慣れた顔ばかり。
私が愛した公爵邸の人々。
全員が、同じ姿勢で頭を下げていた。
乱れが一つもない。
息遣いまで揃っているみたいだった。
お父様が私を抱いたまま一歩踏み込んだ瞬間。
「お嬢様――おかえりなさいませ!!!」
声が、重なった。
一人の声ではない。
家そのものが喋ったみたいな声だった。
背筋が震えた。
耳の奥が熱くなる。
私は、呆然とした。
追放された。
悪女だと言われた。
私はこの世界から弾かれた。
ずっと、そう思って生きてきたのに。
「……おかえり、なさい……?」
自分でも驚くほど小さな声だった。
その声を拾うみたいに、お父様の腕が少しだけ強くなる。
私は、その腕の中で、やっと理解した。
ああ。
私は――家に帰ってきたのね。




