表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
22/22

第二十二話(完結)

お父様は私の背を抱き寄せたまま、ふいに身体ごと持ち上げた。


足が床を離れる。

驚く間もなく視界が揺れて――次の瞬間、私はソファへ運ばれていた。


お父様が腰を下ろし、私はその膝の上に収まる。

子どもの頃みたいに。

あまりに自然で、頭が追いつかない。


泣き止むどころか、涙はさらに溢れた。

堰が切れたように、身体の奥から熱いものが込み上げる。


「……お父様」


呼んだだけで、喉の奥が震えた。


お父様は何も言わず、私の髪を撫でた。

それだけで、胸が壊れそうになる。


ソファの左右に、ユリウスとルキウスが立った。


家族の輪郭が、私を囲む。

囲まれているのに、守られているのに、涙が止まらない。


私は泣いた。

言葉が崩れて、呼吸が崩れて、ただ泣いた。


会えた。

生きていた。

迎えに来てくれた。


それだけで、十分だった。


「姉上」


ユリウスが身を屈め、私の髪に指を通し――そのまま、額に口づけを落とした。

軽いのに、熱が残る。


「……っ」


驚いて瞬きをすると、背後からルキウスが私の頬に触れた。

涙の跡を、指先で確かめるみたいに撫で――その涙に、静かに口づけを落とす。


「リア」


噛み締めるような声だった。


「こんな気持ちにさせるくらいなら」

「父上の提案を断って、最初からずっとリアの側にいればよかった」


責めではない。悔いだった。

大切なものを一度でも手放した自分への、悔い。


私は首を振ろうとしたのに、うまく動かなかった。

涙と息で、身体が言うことを聞かない。


ユリウスが、にっこり笑った。


「姉上、追放とかなんとかは」

「父上が全部うまくやったから、大丈夫だよ」


うまく。

その言葉が、胸の奥で引っかかった。


「……うまく?」


掠れた声が、やっと出た。


追放。

悪女。

恥。


あれは私の罪だったはずで、私はずっと、そう思って生きてきたのに。


分からない。

分からないのに、問い返すのが怖い。

この瞬間を壊したくなくて。


お父様は私の背を抱いたまま、淡々と――けれど確かな強さで言った。


「帰ろう、ヴァレリア」


その一言で、心が揺れた。

帰る。

その言葉は、私の中でずっと遠いものだった。


私は頷いたのか、ただ震えただけなのか、自分でも分からない。

でもお父様はそれを“頷き”として受け取ったみたいに、私を抱く腕を少しだけ強くした。


ふと、ルキウスの視線がルチアへ移った。

ソファの近くで立ち尽くしたまま、落ちた新聞すら拾えずにいるルチアへ。


冷たくはない。

けれど判断の目だった。


「聖女ルチア」


名を呼ばれた瞬間、ルチアの肩が小さく跳ねた。

顔色が、すっと白くなる。


「そなたの忠誠に感謝する」

「この小屋を与えよう」


ルチアの唇が震えた。

声が出ない。目だけが大きく開かれて、私を見る。


嫌だ、と言いたいのに言えない。

ついて行きたい、と言いたいのに言えない。


ユリウスが追い打ちみたいに明るく言った。


「嫌なの?」

「この小屋の価値がわからないの?」


ルチアの指が胸元で握りしめられる。爪が白くなるほど。


「外観も本来の姿に戻して渡すし」

ユリウスは肩をすくめるみたいに言って、

「問題ないだろ?」


ルチアは小刻みに震え、口を開こうとしては閉じた。

言葉が喉でつかえて、形にならない。


――この小屋のあちこちに、私の隣で嬉しそうに笑うルチアが残っている。

八年間の奉仕のあと、ようやくここで“普通”になれた、その時間が。


私はお父様の胸から顔を上げた。

涙でぐしゃぐしゃのまま、息を整えようとして――整わないまま、言った。


「……ルチアは」


声が震える。


「ルチアは、もう……私の妹のようなものです」


ルキウスの眉が、ほんの少しだけ動いた。

ユリウスも、きょとんと瞬きをする。


胸が痛いのに、それでも言葉にしないといけなかった。


「ここまで一緒にいました」

「ここまで一緒に生きました」


ルチアが堪えきれなくなったみたいに、私へ縋りついた。

子どもみたいに、震える腕で。声にならない声で。


私はその手を取った。


「ルチアが私といたいと言うなら」

「……私も、一緒にいたいと思います」


言い終えた瞬間、空気が止まった。


ルピウス家の男たちは、すぐには頷かなかった。

不満がないわけではない。

その“間”が、すべてを語っている。


けれど――お父様は私の髪をもう一度撫でて、短く言った。


「分かった」


裁定の言葉なのに、優しかった。


ルキウスは一度だけ目を伏せ、次に顔を上げて言った。


「リアが望むなら」


ユリウスは少し不満げに口を尖らせてから、すぐに笑った。


「姉上がそう言うなら、まあ」


その言葉で、胸の奥がふっとほどけた。

笑うべきなのか泣くべきなのか分からなくて、私は結局また涙を落とした。


お父様は私を抱き上げ直した。

立ち上がる気配。出発の気配。


「帰るぞ」


その声が、私の世界を決めた。


私はもう、追放されたままの娘ではない。

悪女のままでも、聖女のままでもない。


ただ――家に帰る娘になる。


扉の向こうの春の光が、眩しかった。


私はお父様の腕の中で目を閉じて、もう一度だけ呟いた。


「……お父様」


返事の代わりに、抱く腕が強くなった。

その強さが、答えだった。


外へ出ると、空気が変わった。

町の匂い。パンと湯気と草の匂い。

それが、ふいに遠ざかる。


私たちは人目を避けるように、町外れへ向かった。


道は整えられているのに、どこか“意図的”な静けさがある。

鳥の声さえ、手前で止まるみたいだった。


「……この先だよ」


ルキウスが短く言った。


私は顔を上げた。

見覚えのあるはずの森が、見覚えのない角度で立っている。


森の入口には、何もない。

門も、看板も、番人も。


ただ、木々が――不自然なほど美しかった。


枝の流れが整いすぎている。

葉の重なりが、まるで絵の具で塗ったみたいに均一だ。

光が差し込む場所まで、計算されたように柔らかい。


「……森が、綺麗」


思わず漏れた声に、ユリウスが嬉しそうに笑った。


「森アートだよ」

「姉上、これ、父上がずっと……」


言いかけて、ユリウスは口をつぐんだ。

言ってはいけないことがある、と顔に書いてある。


私はそれ以上訊けなかった。

訊いた瞬間に、何かが壊れる気がした。


一歩、森へ入る。


――世界が、ひとつ音を落とした。


町の気配が消える。

代わりに、湿った土の匂いと、苔の匂いと、冷たい水の匂いが立ち上がる。


私の中の記憶が、勝手に反応した。


ここは、知っている。

知らないはずなのに、知っている。


二歩、三歩。


木々の隙間に、白いものが見えた。


最初は光だと思った。

次に石だと思った。


そして――建物だと理解した瞬間、胸が詰まった。


「……嘘」


声にならない。


邸宅があった。


見間違えようがない。

門の形。石畳の敷き方。壁の色。窓枠の曲線。

庭の配置すら。


「……ルピウス邸」


私は呟いた。

呟いた途端、涙がまた溢れた。


お父様は何も言わない。

言わないまま、私を抱いた腕だけが揺れない。


私は目を離せなかった。

一つ一つ確認するみたいに視線を走らせた。


あの噴水。

あの蔦。

あの薔薇の支柱。

玄関までの段の数。


全部、同じだ。


追放されたはずなのに。

家は、ここにある。


入口に近づくと、扉が開いた。


中から、人が――出てこない。


代わりに、扉の奥に“列”が見えた。

左右に、ずらり。


見慣れた顔ばかり。

私が愛した公爵邸の人々。


全員が、同じ姿勢で頭を下げていた。

乱れが一つもない。

息遣いまで揃っているみたいだった。


お父様が私を抱いたまま一歩踏み込んだ瞬間。


「お嬢様――おかえりなさいませ!!!」


声が、重なった。


一人の声ではない。

家そのものが喋ったみたいな声だった。


背筋が震えた。

耳の奥が熱くなる。


私は、呆然とした。


追放された。

悪女だと言われた。

私はこの世界から弾かれた。


ずっと、そう思って生きてきたのに。


「……おかえり、なさい……?」


自分でも驚くほど小さな声だった。


その声を拾うみたいに、お父様の腕が少しだけ強くなる。


私は、その腕の中で、やっと理解した。


ああ。


私は――家に帰ってきたのね。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ