表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
21/22

第二十一話

針が布を抜ける音は、小さかった。

糸を引くたび、花の輪郭が少しずつ整っていく。


私はソファに腰を沈め、黙って刺繍を続けていた。

春の光が窓から差し込み、指先をあたたかく照らす。


隣ではルチアが膝に薄い紙束を広げていた。

最近この町で刷られるようになった新聞だ。指で撫でれば滑りがよく、活字の黒は深い。王都で手にしていたものと、ほとんど見分けがつかない。


「……今日は、穏やかな記事ですね」


ルチアが小さく言った。

私は針を動かしたまま、曖昧に頷く。


穏やか、という言葉に救われたくて。

この町は豊かになり、笑い声も増えたのに、私はまだ“追放された悪女”の気持ちでいる。


私が追放された後、王都がどうなったかは知らない。

国がどうなったかなど、知る術もない。


扉が叩かれた。

一度。短く。乾いた音。


その瞬間、針先が止まった。

糸だけが張りつめ、呼吸まで細くなる。


次の瞬間。


扉が、勝手に開いた。


「姉上!!」


弾ける声と一緒に青年が飛び込んできた。

両腕を広げ、まっすぐこちらへ――


反射で手が引けた。

刺繍枠が膝から滑り落ち、布がくしゃりと潰れる。指先に残った針が危うく揺れ、私は慌ててそれを手放した。


針は、床に落ちた。

小さな金属音がして、ようやく現実が戻る。


「ユリウス……?」


名が口から滑り落ちる。


けれどユリウスの身体は、横へ押し退けられた。

押し退けたのは、もっと大きな影だった。


私は抱きしめられた。

正面から。確かめるみたいに。逃げ道を塞ぐみたいに。


「……ヴァレリア」


低い声。


「遅くなってすまない」


針は落ちたのに、私はまだ腕を動かせない。

怖いのは針じゃない。これは――あり得ないはずの光景だ。


「……お父、様……?」


名を呼んだ瞬間、胸の奥が裂けそうになった。


背後から、さらに腕が重なった。

後ろに回り込むように、もう一人が抱きしめてくる。


「ヴァレリア」


落ち着いた声。噛み締めるような呼び方。


「お兄……様……?」


正面で父に抱かれ、背中から兄に抱かれる。

ユリウスが悔しそうに叫んだ。


「父上! ずるい!!

俺だって最初に抱きつきたかったのに!!」


隣で、ルチアが新聞を落としていた。

紙が床に滑り、ばさり、と春の静けさを破る。


抱きしめていた腕が、ほんの少し緩んだ。

父は私を離したわけではない。離せない、とでもいうように胸の内に閉じ込めたまま、私の顔を覗き込む。


近い。

昔と同じ匂いがする。


「迎えに来た」


その言葉が落ちた瞬間、視界が滲んだ。

理由を考えるより先に、涙が溢れてくる。


「……お父様」


声が掠れた。

名を呼んだだけで、もう堪えきれない。


「お父様……っ」


頬を伝って落ちる。止まらない。

指で拭おうとしても、指先が震えて上手くいかない。


「会いたかった」


言葉にした途端、喉が詰まって声がうまく出ない。


「……あ、っ……会いたかった……!」


泣くつもりなんてなかったのに、泣いている。

涙が止まらなくて、息が乱れて、言葉がほどけていく。


「お父様……ごめんなさい」


最初に出てきたのは、謝罪だった。

長い間ずっと胸に押し込んでいたものが、勝手に溢れる。


「私が至らないせいで……ルピウス家に恥をかかせて……追放まで……」


言葉が途切れる。

息が震えて、喉が熱くて、続かない。


それでも、吐き出さないといけない気がした。


「それなのに……会いたいって……」

「こんな、欲張りな思いを……抱き続けて……ごめんなさい……」


涙は次から次へとこぼれ落ちていった。


父の腕が、抱き直すように強くなる。

逃がさない抱き方だった。


「ヴァレリア」


低い声で名前を呼ばれた瞬間、背筋が震えた。


「恥など、かいていない」


短い。けれど、静かで、揺れない否定だった。


「追放されたのは、お前の罪じゃない」


私は息を呑む。

否定されるほど、さらに泣けてしまう。


父は、もう一度だけ言った。


「迎えに来た」


その言葉だけで、胸がいっぱいになった。

私はただ、父の胸に顔を押しつけて泣いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ