第二十一話
針が布を抜ける音は、小さかった。
糸を引くたび、花の輪郭が少しずつ整っていく。
私はソファに腰を沈め、黙って刺繍を続けていた。
春の光が窓から差し込み、指先をあたたかく照らす。
隣ではルチアが膝に薄い紙束を広げていた。
最近この町で刷られるようになった新聞だ。指で撫でれば滑りがよく、活字の黒は深い。王都で手にしていたものと、ほとんど見分けがつかない。
「……今日は、穏やかな記事ですね」
ルチアが小さく言った。
私は針を動かしたまま、曖昧に頷く。
穏やか、という言葉に救われたくて。
この町は豊かになり、笑い声も増えたのに、私はまだ“追放された悪女”の気持ちでいる。
私が追放された後、王都がどうなったかは知らない。
国がどうなったかなど、知る術もない。
扉が叩かれた。
一度。短く。乾いた音。
その瞬間、針先が止まった。
糸だけが張りつめ、呼吸まで細くなる。
次の瞬間。
扉が、勝手に開いた。
「姉上!!」
弾ける声と一緒に青年が飛び込んできた。
両腕を広げ、まっすぐこちらへ――
反射で手が引けた。
刺繍枠が膝から滑り落ち、布がくしゃりと潰れる。指先に残った針が危うく揺れ、私は慌ててそれを手放した。
針は、床に落ちた。
小さな金属音がして、ようやく現実が戻る。
「ユリウス……?」
名が口から滑り落ちる。
けれどユリウスの身体は、横へ押し退けられた。
押し退けたのは、もっと大きな影だった。
私は抱きしめられた。
正面から。確かめるみたいに。逃げ道を塞ぐみたいに。
「……ヴァレリア」
低い声。
「遅くなってすまない」
針は落ちたのに、私はまだ腕を動かせない。
怖いのは針じゃない。これは――あり得ないはずの光景だ。
「……お父、様……?」
名を呼んだ瞬間、胸の奥が裂けそうになった。
背後から、さらに腕が重なった。
後ろに回り込むように、もう一人が抱きしめてくる。
「ヴァレリア」
落ち着いた声。噛み締めるような呼び方。
「お兄……様……?」
正面で父に抱かれ、背中から兄に抱かれる。
ユリウスが悔しそうに叫んだ。
「父上! ずるい!!
俺だって最初に抱きつきたかったのに!!」
隣で、ルチアが新聞を落としていた。
紙が床に滑り、ばさり、と春の静けさを破る。
抱きしめていた腕が、ほんの少し緩んだ。
父は私を離したわけではない。離せない、とでもいうように胸の内に閉じ込めたまま、私の顔を覗き込む。
近い。
昔と同じ匂いがする。
「迎えに来た」
その言葉が落ちた瞬間、視界が滲んだ。
理由を考えるより先に、涙が溢れてくる。
「……お父様」
声が掠れた。
名を呼んだだけで、もう堪えきれない。
「お父様……っ」
頬を伝って落ちる。止まらない。
指で拭おうとしても、指先が震えて上手くいかない。
「会いたかった」
言葉にした途端、喉が詰まって声がうまく出ない。
「……あ、っ……会いたかった……!」
泣くつもりなんてなかったのに、泣いている。
涙が止まらなくて、息が乱れて、言葉がほどけていく。
「お父様……ごめんなさい」
最初に出てきたのは、謝罪だった。
長い間ずっと胸に押し込んでいたものが、勝手に溢れる。
「私が至らないせいで……ルピウス家に恥をかかせて……追放まで……」
言葉が途切れる。
息が震えて、喉が熱くて、続かない。
それでも、吐き出さないといけない気がした。
「それなのに……会いたいって……」
「こんな、欲張りな思いを……抱き続けて……ごめんなさい……」
涙は次から次へとこぼれ落ちていった。
父の腕が、抱き直すように強くなる。
逃がさない抱き方だった。
「ヴァレリア」
低い声で名前を呼ばれた瞬間、背筋が震えた。
「恥など、かいていない」
短い。けれど、静かで、揺れない否定だった。
「追放されたのは、お前の罪じゃない」
私は息を呑む。
否定されるほど、さらに泣けてしまう。
父は、もう一度だけ言った。
「迎えに来た」
その言葉だけで、胸がいっぱいになった。
私はただ、父の胸に顔を押しつけて泣いた。




