第二十話
雪が消えた。
冬の間、白に沈んでいた町は、春の光を受けて色を取り戻していく。
土の色。木の色。人の頬の色。
そして――匂い。
焼けた匂いでも、灰の匂いでもない。
湯気の匂い、パンの匂い、湿った草の匂い。
生きている匂いだった。
道はもう「通るための線」ではなく、「暮らすための場所」になっている。
流通の荷車は決まった時間に通り、職人の工房は音を出し、店先には新しい看板が増えた。
王都からの移住者は、途切れない。
肩を落として来たはずの人々が、ここでは少しずつ背を伸ばしていく。
誰もが何かを作り、何かを売り、何かを直し、何かを学んでいる。
町が、機能していた。
「……学校ができたらしいですよ」
ルチアがそう言ったのは、昼の終わりだった。
洗い物の水を替えながら、噂話を拾ったような声で。
「村外れに。先生がいるんですって」
「しかも……仮面をつけた若い男」
「仮面?」
「うさぎの仮面、だそうです」
私は思わず眉を上げた。
奇妙なのに、なぜか嫌な感じがしない。
「何でも教えられるらしいんです」
「礼儀作法から、数学、文学、歴史、音楽、絵画、宗教」
「外国語は……八カ国語、とか」
八カ国語。
それは噂話にしても…
「……それは、誰が言っていたの?」
「子どもたちです。目を輝かせて」
「大げさに言うのが子どもでしょう、って思うのに……」
ルチアは少し口元を引き結んだ。
「大人まで、信じ始めてるみたいです」
先生、と呼ばれているらしい。
若い男。うさぎの仮面。
そして、何でも教えられる。
――奇妙なのに、この町には似合う。
ここは、変なものすら飲み込んで、形にしてしまう場所だ。
セルヴェルスが燃えている限り、町は変化を止めない。
夕刻、広場へ出ると、人だかりができていた。
輪の中心で、人形が踊っている。
木で作った小さな人形が、紐に引かれ、くるりと回り、頭を下げる。
観客の子どもたちが笑い、母親たちが手を口元に当てて笑う。
男たちは仕事の手を止め、短い時間だけ目を細める。
人形劇だ。
演目の内容は単純だった。
冬に負けそうになった村が、協力して畑を守り、春を迎える話。
誰が悪い、誰が正しい、そういう話ではない。
ただ、生きる話。
私は輪の外から眺めていた。
春の空気は柔らかく、光は眩しい。
雪はもうない。
世界は鮮やかで、ここに来てから一番、「平和」という言葉が似合っていた。
――素晴らしい町だわ。
そう思う。
本当にそう思う。
けれど、その感想は、心のどこかに落ちきらない。
町が豊かになればなるほど、欠けている場所が輪郭を持つ。
夜。
ランプの灯りが揺れる小屋で、ルチアは私の隣で眠っていた。
呼吸は穏やかで、肩の力が抜けている。
私はそっと、彼女の髪に指を通した。
柔らかい。
生きている髪だ。
あの青白い顔で王宮を歩いていた頃とは違う。
良かった、と胸が言う。
救えた、と胸が言う。
それでも、別の場所が、痛む。
「……お父様」
声は、吐息みたいに小さかった。
起こしたくなかったからではない。
それ以前に、自分でも驚くほど弱い声しか出なかった。
「……お兄様」
「ユリウス……会いたい」
涙がこぼれた。
一滴だけ、と決めたのに、決めた通りにはならない。
私は唇を噛み、指先で拭う。
拭っても、また一滴。
こんなに平和で、豊かで、幸せなのに。
私は贅沢ね。
そう思って、そう思ったことが、さらに苦しかった。
幸せを数えた瞬間、足りないものがはっきりしてしまうからだ。
私はもう一度、ルチアの髪を撫でた。
眠る彼女は何も知らない。
知らないまま、ここで生きている。
私はその横で、静かに泣いた。
「……会いたい」
口の中だけで言って、音にしなかった。
そして、涙がもうひとしずく落ちた。




