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第十八話(王太子視点)

馬の蹄が、凍った地面を叩く。

乾いた音が続くたび、身体の内側の痛みだけが置き去りにされていく。


息が白い。

視界の端で、冬の森が流れていく。


――王都は落ちた。

フェロス帝国の急襲。

国王は捕らえられ、さらし首になった。


その事実だけを抱えて、私は走っている。

向かう先にあるのは、もう“王都”ではなかった。


ヴァレリア。


名を呼ぶだけで、喉の奥が熱くなる。

そんな感覚が、子どもだった私にもあった。


出会ったのは、私が六歳の頃。

彼女は五歳で、少しだけ背が低かった。


私は急拵えの王太子だった。

時間はいくらあっても足りない。

学ぶことは無限にあり、間違えることは許されず、正しい言葉を選ぶことに疲れ切る日々だった。


父は私を見ない。

見ないくせに、見ている。


その視線だけが、空気のようにまとわりつく。


母は――もっと遠い。

こちらを向くことのない視線。

呼んでも届かない場所にいる、冷たい背中。


「アウグスト」と呟く背中を、私は何度か見た。

だから私は、母に何かを求めることをやめた。


だから私は、あの子のところへ行った。


義務を終えれば、飛ぶように走った。

侍従が息を切らし、教師が眉をひそめても構わなかった。

早く終わらせれば、その分だけ会える。


会えば、何かがほどけた。

王太子ではない自分が、そこにいた。


ヴァレリアは、いつも穏やかな笑みをたたえていた。

真っ直ぐ私を見つめる瞳は、温もりに溢れていた。


その目に触れるだけで、私は救われた気がした。


九歳の年が終わろうとする頃から、会えなくなった。


最初は偶然だと思った。忙しいのだろう、と。

次に、父の気まぐれだと思った。私がヴァレリアに夢中になりすぎていることを、懸念したのか、と。


けれど違った。

会おうとするたびに、見えない壁が厚くなっていった。


誰に訊いても、答えが返ってこない。

返ってくるのは、曖昧な笑みと、言葉にならない沈黙だけ。


――ルピウス公爵家。

その名が、やけに静かに王宮を支配していた。


王家とルピウス公爵家は血で繋がっている。

傍流王族。

その響きは、王家の力が揺らいだ瞬間に、牙を持つ。


だから私は、初めて手紙を書いた。

会えないなら、せめて言葉だけでも渡したかった。


最初は、ただの報告だった。

今日学んだこと。今日叱られたこと。

彼女に会いたいという、情けない願い。


返事は来なかった。


それでも書いた。

書けば、どこかで繋がっている気がした。


けれど、季節がいくつも過ぎるうちに、私の手紙は変わった。


丁寧な文の隙間に、苛立ちが混じった。

無視されているのではないか、という疑いが混じった。

そして、憎しみが混じった。


――なぜ、私を見てくれない。

――なぜ、私を必要としない。

――なぜ、私を無視するんだ。


そんな言葉を、私は何度も紙の上に走らせた。

何度も、握りつぶした。

それでも、書き続けた。


完璧に諦めるまで五年。


十四歳の一年が終わろうとする頃、私は最後の手紙を書いて、やめた。


会えなくなってから八年。

その間、私は一度も彼女を見ていない。


十六で社交界に現れたヴァレリアは、眩いくらい綺麗になっていた。


あの夜のことを、私は何度も繰り返して思い出す。


もしも、素直になれていれば違ったのかもしれない。


「綺麗だ」と言えばよかった。

ただ、それだけを。


手を取って、踊りに誘えばよかった。

「私と踊ってくれませんか」と。


ヴァレリアは何が好きだ、と聞いて、

飲み物を取りに行って、

当たり前のように談笑して、

当たり前のように笑えばよかった。


けれど私は、美しいと思った素直な気持ちを握りつぶした。


無視されたらどうしようと、脆弱にも怯えた。

ただ軽い一言すらかける勇気もなかった。


そして、ヴァレリアを悪女として仕立てる時には――

雄弁で、強気な自分がいた。


あの時の私は、王太子の仮面だけは上手く被れた。

自分の弱さを隠すためなら、いくらでも言葉が出た。


馬が息を荒くする。

私の指先は冷たいのに、胸だけが熱い。


――九歳の頃から、会えなくなった理由。

今なら、分かる。


ヴァレリアが聖女として覚醒したからだ。

そしてルピウス公爵家が、彼女を守った。


王宮にいる私から遠ざけるために。

王の手から、視線から、欲望から切り離すために。


青白い顔をして、王宮をふらつくように歩く聖女ルチア。

あの姿を知っている私は――ルピウス公爵家がしたことは、正しいとしか言えないのではないか。


だから、私は走る。


森を抜けると、城壁の残骸が見えた。

門は半ば崩れ、焦げた木が無造作に転がっている。


私は馬を降り、外套の襟を立てた。

顔を隠す。名を隠す。呼吸まで隠す。


王都に、王都の匂いはなかった。

焼けた油の匂い。冷えた血の匂い。濡れた灰の匂い。


そこに、別の匂いが混ざっている。

恐怖ではない。諦めでもない。


――空腹だ。


人々は痩せていた。

頬がこけ、唇が割れ、指が布の上からでも骨を主張している。


泣いている子どもがいる。

泣き声が弱い。声を張り上げる力すらないのだ。


女が、布に包んだ何かを抱えていた。

重く抱えたそれが、子どもだと気づくのに時間はかからなかった。


葬る穴を掘る者がいる。

掘る手が震えている。


国は守ってくれなかった。

王家は助けてくれなかった。


それだけが、街の共通理解だった。


広場へ向かうと、柱が見えた。

その先に――首がある。


私は足を止めた。

息が、止まった。


あれが。

あれが、父なのか。


恐ろしかった権威だった。

近づけば焼けるような、触れれば死ぬような、特別な“何か”だった。


それが――縄で吊られ、風に揺れている。


愕然とした。

悲しみではなく、理解が追いつかない愕然。

自分の世界の骨組みが、音もなく崩れ落ちる愕然。


私は知らず、見上げていた。


父の顔は、もう“父”ではない。

それでも――その輪郭だけが、幼い頃からの記憶と重なって、胸の奥が鈍く痺れた。


周囲の人々は、見上げていない。

首はもう“景色”だった。


荷車が行き交う。

縄が鳴る。桶がぶつかる。


人々は怒鳴らない。

怒鳴るより先に、やることがある。


「……聖女様の町へ」

「向こうなら、生き残れる」

「今夜のうちに出る。遅れをとるな」


声は祈りではなく段取りだった。

生き延びるための段取り。


その中で、私だけが、過去を見上げている。


――私は、ここにいていいのか。


そう思った瞬間だった。


人波の端で、誰かが止まる。

視線が一箇所に集まる。

広場の空気が、薄くなる。


「……あれ」


小さな声。

だが、その小ささが火種になる。


「……王太子じゃないか」


背中が凍った。


私のことを知らないはずの者が、なぜ。

そう考える前に、答えは出ていた。


歩き方。姿勢。癖。

王太子教育は、身体に刻む。

隠したつもりでも、滲む。


「まだ生きてたのか」


誰かが石を拾った。

怒鳴り声は少ない。


少ないのに、重い。


「裏切り者の王族」

「国を滅ぼした元凶」

「聖女を追放した無能」


言葉は途切れ途切れで、だからこそ刺さる。


石が飛ぶ。

私は反射的に身を引いた。


次の石が続く。

小さな石。だが当たれば終わる。


そして何より恐ろしいのは、怒鳴り声より先に広場に生まれた“同意”だった。

誰も止めない。止める理由がない。


私は、逃げた。


逃げながら、思った。

王の首が景色になっても、王太子は景色にはならない。

生きている限り、憎しみは新しくなる。


路地へ飛び込んだ瞬間、腕を掴まれた。


強い力。引きずられる。

声が出ない。


「こちらへ」


低い声。男だ。

だが、敵の声ではない。


私は抵抗する前に、暗い入口へ押し込まれた。

扉が閉まり、外の喧噪が切れた。


火の気のない室内で、数人の影が動く。

その中の一人が、膝をついた。


「……殿下」


その呼び方に、胸が痛む。

もう、その呼び方は、必要のないはずなのに。


「旧ヴェルディアの者です」

「今もなお殿下を殿下と呼ぶのは危険だと承知しています。ですが――」


男は一度言葉を切り、続けた。


「殿下を見捨てることは、できません」


助けられた。

そう理解するのに、私は時間がかかった。


「なぜ……」


問いは掠れた。


男は迷いなく答えた。


「殿下は罪を犯しました」

「ですが、殿下が背負わされたものも、我々は見ていました」


見ていた。

そう言われることが、こんなに苦しいとは知らなかった。


男は続ける。


「我々は海の向こうへ渡ります」

「ここに残れば、餓死か、狩りです」

「殿下もご一緒に。名を捨てれば、生きられる」


海の向こう。

名を捨てる。


頭の中で何かが揺れた。

それは救いでもあり、逃避でもある。


答えが出ない。


私はヴァレリアの名を思った。

彼女がいる場所。彼女が築いた町。

そこへ向かう資格が、私にあるのか。


男は急かさない。

ただ待つ。


私は、結局、言った。


「……助けてくれたこと、感謝する」

「この恩は忘れない」


それだけが精一杯だった。

同行するとも、しないとも、言えない。


男はそれを受け取り、深く頭を下げた。


「殿下が生きているだけで、十分です」


胸が痛む。

その言葉が、私を許そうとしているからだ。


許される資格など、ないのに。


「今は……ここを離れてください」

「外は、もう殿下の国ではありません」


男の声は静かだった。

静かで、だから決定だった。


私は外套の襟を上げ直し、裏口へ向かった。

扉の隙間から冷気が入り込む。


外へ出れば、また石が飛ぶだろう。

罵声よりも、沈黙が私を殺すだろう。


それでも、止まれない。


止まる理由がない。


私は闇の中へ滑り出る。

息を殺し、足音を殺し、名を殺す。


私は走る。


ヴァレリア。


名を呼ぶことすら、今の私には贅沢だった。


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