第十五話(王太子視点)
セルヴェルスの土下座を、私は見ていた。
小屋の影から。
誰にも気づかれない場所で。
そして――
セルヴェルスの「第一国民」発言を、はっきりと聞いた。
……正直に言えば、怒りはなかった。
怒りよりも、困惑。
困惑よりも、理解不能。
あれは、私の知っているセルヴェルスではなかった。
セルヴェルスはいつも澄ました顔をしていた。
もったいぶった物言いで、
すべてを知っているかのように振る舞い、
誰の側にも立たず、誰の上にも立たず、
それでいて、気づけば要所にいる男だった。
蛇のような。
蝙蝠のような。
賢く、狡く、
泥を踏まない男。
少なくとも――
私の知るセルヴェルスは、そういう人間だった。
それが。
地に額をつけ、
声を張り上げ、
自分を差し出すような真似をしていた。
あんな姿は、
あんな言葉は、
一度も、見たことがない。
……あんな、泥臭い男じゃない。
なのに。
視線を逸らせなかったのは、
それが演技だと、言い切れなかったからだ。
その夜。
野営地に設えられた簡易の執務室で、
私は部下から上がってきた報告書に目を通していた。
……いや。
通そうとして、手が止まった。
文字が、頭に入ってこない。
「……花、全滅?」
「作物、発芽せず?」
「鉱山――消失?」
並ぶ報告は、
あまりにも現実味がなく、
悪質な冗談のようだった。
「……どういう、意味だ」
声が掠れる。
部下は顔色を失ったまま答えた。
「事実です、殿下」
「王都周辺、地方問わず……」
「花は枯れ、作物は育たず、鉱山は掘った端から土に戻っています」
「……ふざけるな」
机を叩こうとして、
力が入らず、音にもならなかった。
国が――
王都が――
死んでいる。
その現実が、
じわじわと喉を締めつけてくる。
「……セルヴェルスを呼べ」
命じる声は、低かった。
ほどなくして、
テントの幕が上がり、
セルヴェルスが姿を現した。
――澄ました顔。
いつも通りの、
腹の底が見えない顔。
その瞬間、
胸の奥から、どうしようもない怒りが噴き上がった。
「セルヴェルス!!」
気づけば私は、
彼の首根っこを掴み、壁に叩きつけていた。
「貴様……国を売る気か!?」
「王族を、裏切るつもりか!!」
理屈ではない。
分かっている。
それでも、止まらなかった。
「第一国民だと!?」
「ヴァレリアに、何を吹き込んだ!!」
セルヴェルスは、眉ひとつ動かさない。
そして、静かに言った。
「……先に国民を裏切ったのは、国です」
「国民の利益を奪ったのは、王族でした」
その言葉が、胸に刺さる。
「ヴァレリア様の追放は、国を壊した」
「それが、国民への裏切りです」
その言葉が落ちるより先に、
「――違う!!」
気づけば、叫んでいた。
「違う、違う、違う!!」
喉が痛む。
呼吸が浅い。
「ヴァレリアは……ヴァレリアは聖女じゃない!!」
セルヴェルスは、何も言わない。
それが、余計に腹が立つ。
「そんなわけがないだろう!?」
「核だの、国の根幹だの……そんな都合のいい話があるか!!」
机の書類に手を伸ばしかけ、
途中で止める。
「それに……それにだ!!」
言葉が追いつかない。
「聖女だとしても……」
「あんなレベルの聖女が、今の時代にいるわけがないだろう!!」
思考より先に、感情が溢れる。
「救国時代以来だぞ!?」
「国が滅びかけて、神話と一緒に語られる存在だ!!」
息が荒れる。
「そんな聖女は……」
「神話の中の存在だ!!」
拳を強く握りしめる。
「……現実に、いるわけがない」
言い切ったはずなのに、
胸の奥がざわついた。
そのとき――
セルヴェルスの表情が、一瞬だけ変わった。
それは、
まるで――ゴミを見るような目だった。
すぐに、その表情は消える。
「……私は、殿下とこれ以上お話しすることはありません」
淡々とした声。
「私は今、とても忙しい身です」
「そして、とても重要な立場におります」
感情を削ぎ落としたような口調だった。
「今後、このように呼び出されることはお控えください」
一拍置いて、形式だけの言葉を添える。
「殿下も、どうか殿下の道を生きていってください」
「……お元気で」
それだけ言って、
セルヴェルスは踵を返した。
止める言葉は、
もう出てこなかった。
私は、その場に立ち尽くしていた。
追いかけることも、
呼び止めることもできず、
ただ、取り残されたように。
やがて視界に入ったのは、
机の上に積まれたままの文書だった。
枯れた花。
死んだ土。
消えた鉱山。
――国の現実。
それを見た瞬間、
遅れて怒りが噴き上がる。
「……っ!!」
腕を振り上げ、
文書を力任せに叩き落とす。
紙が舞い、床に散らばる。
「ああっ……!」
机を、何度も叩く。
意味もなく。
感情の行き場もなく。
やがて力が抜け、
私はその場に崩れ落ちた。
床に座り込み、
両手で顔を覆う。
「……兄上……」
喉が詰まる。
「兄上……兄上……」
返事のない相手に、
縋るように名前を呼ぶ。
「兄上なら、どう動いた?」
「兄上なら……助けてくれたのか?」
声が震える。
「俺は……」
絞り出すように呟いた。
「俺は、出来損ないだ」
それ以上、言葉は続かなかった。
答えは、
どこにもなかった。




