第十二話
手を止めたのは、刺繍糸が絡まったからではなかった。
小さな枠に張られた白布の上で、銀糸が淡く光っている。
私は針先を動かしながら、同じ輪郭を何度もなぞっていた。
盾の中央には、横向きの白狼。
吠えるでもなく、牙を剥くでもない。ただ前を見据えて立っている。
その足元に一輪の薔薇。深紅の糸で縁取った花弁は、儚いのに気高い。
さらに上に、小さな星がひとつ。
――ルピウス公爵家の家紋。
幼い頃から見慣れた印だ。
父の外套にも、屋敷の調度にも、騎士たちの旗にも。
だから私は、これに特別な意味を探したことがなかった。
窓辺で、ルチアが外を見ていた。
白い息が硝子に淡く曇りを残している。
「……ヴァレリア様」
呼ばれて、私は針を止めた。
「王太子殿下たち、あの森の手前で……野営なさるようです」
その声音には、警戒と棘が混じっていた。
私はそれに気付かず、窓の外へ目をやり、静かに頷く。
「まあ……この寒さの中で」
雪は止む気配を見せず、風も冷たい。
夜になれば、さらに厳しくなるだろう。
「お体を冷やされなければよいのですが」
そう口にした瞬間、背後の気配が揺れた。
「……え?」
ルチアが、驚いたようにこちらを見ている。
「……ご心配、なさるのですか?」
「ええ。寒いのは、お辛いでしょう」
当たり前のことを言ったつもりだった。
けれどルチアは、なぜか固まったまま動かない。
まるで、その言葉が“あってはならないもの”だったかのように。
それから、はっとしたように首を振り、
窓から離れて、私のそばへ来た。
まるで――戻る場所を確かめるように。
「……やめます。外を見るのは」
そう言って、私の隣に腰を下ろす。
暖炉の火が、静かに音を立てている。
しばらく、何も言わずに並んだ。
私は再び刺繍枠に視線を落とし、白狼の目へ針を運ぶ。
ほんの少しだけ影を入れると、狼は急に生き物のような気配を帯びた。
静かで、揺るがない意思。
――守る、という形。
私はそれを、ただ美しい模様だと思っただけだった。
そのとき、ルチアがぽつりと呟いた。
「……ヴァレリア様の側にいれば」
とても小さな声だった。
「……私も、いつか……美しい人になれるでしょうか」
私は針を置き、少しだけ考える。
そして、本当に当たり前のことを言うように答えた。
「もう、十分すぎるほど美しいですわ」
ルチアは言葉を失ったように瞬きをし、
次の瞬間、視線を落とした。
けれどその肩から、ほんの少しだけ力が抜けたのが分かった。
刺繍布の上で、白狼は静かに前を見据えている。
薔薇はその足元で、変わらず咲いていた。
この家紋が、何を意味しているのか。
この場所が、どれほど異質なのか。
――そのどちらも、私はまだ、知らないままだった。
⸻
一方、森の手前。
王太子の陣営では、慌ただしく野営の準備が進められていた。
焚き火が起こされ、天幕が張られ、最低限の体裁は整えられていく。
けれど。
「……で、今後は?」
誰かが、そう口にした瞬間、空気が止まった。
王太子は、何も答えられなかった。
小屋を包囲する理由もない。
引き返す名分もない。
交渉の算段も、命令も、すでに失われている。
ただ、追いかけてきただけだった。
ただ、断罪するつもりで来ただけだった。
それが崩れた今、
彼の前には――何も残っていなかった。
焚き火の音だけが、
断罪の行き場を失った夜に、虚しく響いていた。




