第一話
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王宮は、美しかった。
初めて足を踏み入れた日、私はほんの少し、ときめいてしまった。
高い天井から落ちる光は星のようで、磨かれた床は私の靴音をきれいに響かせた。
花と香水の匂いが混ざり合い、ここはきっと、選ばれた者だけの世界なのだと思った。
けれど、慣れは優しくなかった。
光は眩しすぎて目を逸らしたくなり、靴音はどこまでも逃げ道のない音になった。
美しいはずの王宮は、いつしか私にとって、美しい牢獄のように見えるようになっていた。
16歳で飛び込んだ社交の世界は、私には難しすぎた。
八年ぶりに会う幼馴染の、レオニード殿下。
私を見る目は冷たく、国王陛下の私を見る目はさらに冷えていた。
社交の場では何故か私の近くにいつも聖女がいらっしゃり、感じ入ったように目を瞑られている。
そんな聖女はいつも転んだり、頭からシャンパンを浴びたりして、そして何故かそれが私のせいになっている。
私は驚いて目を開いたまま立ち尽くしてしまう。
けれど、その姿がまた悪役令嬢である、と非難を浴びる。
私を非難する声を聞き続けるうちに、音がどんどん遠くなっていった。
はじめに感じた恐怖は、いまはどこか宙を浮くようで、私はここに存在していて、まるでいないように感じるようになっていた。
震える指先だけ残して、私の意識はこの広い王宮に漂う。
そんなある日のことだった。
「ヴァレリア・ルピウス」
国王陛下の声が、凍った刃のように落ちてくる。
「そなたを、聖女の能力を奪った罪により追放する!!
――ルピウス公爵家の悪名高き悪女のヴァレリア!」
その言葉が落ちた瞬間だった。
背後で、グラスが床に触れる音がした。
次いで、絹が擦れる音。誰かの息が詰まる気配。
聖女が、崩れるように倒れた。
「聖女!」
レオニード殿下が駆け寄った。
「いったいなにをしたら聖女がこんなに震えてしまうというんだ!この悪女め」
悪女。
悪役令嬢。
これまで何度も言われてきた言葉だった。
けれどあなたもその言葉で私を表して、そんな風に睨みつけるのね。
遠い日のレオニード殿下の笑顔が脳裏に浮かんで、
「連れて行け!」
と叫ぶ殿下の声で消えた。
幼き日の記憶は、もう浮上してくることはない。
家に帰ることも許されず、そのまま古い馬車に乗せられる。
……けれど。
なぜか快適だった。
このソファー――まるで私の部屋のソファーのような。
この馬車、どうして私が好きなサンダルウッドの香りがするのかしら。
古い革と木の匂いに混じって、私が落ち着く香りだけが確かにある。
あら。向かいの座席に、小さな箱が置いてある。
見た目は薄汚れているのに、不快なにおいはしない。
むしろ、誰かが丁寧に守ってきたもののように見える。
――中には、何が入っているのだろう。
留め具は古びているのに、引っかかりひとつなく外れた。
蓋を開けると、冷たい空気の中に、ふわりと香りが立った。
サンダルウッド。
まず、布が一枚。
見た目はぼろぼろで、端は擦り切れ、色も褪せている。
けれど触れた瞬間、それがただの布ではないと分かった。肌触りが良い。あたたかい。
私はそれを肩に掛けた。
外側の薄汚れた面が、まるで追放された私にふさわしい仮面のように見える。
けれど内側は、私の体温を逃がさない。
次に、同じようにぼろぼろの手袋。
指を通すと、指先がじわりと生き返っていく。
震えが、少しだけ収まった。
最後に、毛布のような布。
これも薄汚れているのに、重みがちょうどよく、清潔だった。
膝に掛けると、怖さの居場所が小さくなる。
私は不安からくる震えを、身体を抱きしめるようにして抑えようとした。
そのとき、馬車が止まった。
馬車の外で何事か争うような声が聞こえてきたが、すぐにその声は遠ざかっていった。
そして、人の気配がなくなった。
どれくらいの間、恐怖に震えていたのだろう。
やがて人の気配が戻り、馬車が動き出す。
先程よりも――早い。
それなのに先程より、揺れが少なく、さらに快適になっている。
……何故かしら。




