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昔々、今は天に二つ輝く月も、一つしかなかった頃。
月は異なる世界との扉であり、月を通って、空から様々なものがこの世界に降ってきた。
それは人であったり、物であったり、何ともわからぬ化け物だったり、或いは単なる光の場合もあったそうだ。
尤も生き物が降ってきた場合は、誰かが助けなければ殆どが地にぶつかって死んでしまったけれども。
異なる世界は無数にあり、どの世界から何が降って来るかは、誰にもわからない。
それがこの世界にとって福となる事もあれば、災いとなる場合もあった。
また逆に、この世界から、月を通って異世界に旅立った者もいる。
当時の神武八州は、今よりもずっと栄えていたという。
何故なら神々が地で、人と同じ目線で暮らしていたから。
故に空から降って来る福や災いを、受け入れる余裕がこの地にはあったのだ。
ある日、月の向こう側から、一人の人間が降ってきた。
その時は幸いにも、一柱のモノ好きな神が月を眺めて愛でていたので、その人間は救われ、気に入られ、行き場もないからとそのまま神の弟子となる。
この人間が、神の力を解き明かして最初の術者となった仙人だ。
それまで、人に術者はいなかったという。
不思議な術は神か、それよりも大分と劣るが妖怪にのみ許されたもので、人には縁のないものだった。
ごく稀に、生まれつき他の人より気が多く、その一端を無意識に操れる者もいたそうだけれど、そうした者は道士と呼ばれ、神の加護を受けて生まれたのだと思われてたから。
しかし仙人は、神の力が四つの要素で成り立っている事を理解し、その一つ一つを切り離し、人にも扱えるように法術や陰陽術を生み出す。
尤も法術は、昔は方術って言ったらしいけれども。
武芸者が使っているような気の操作も、この仙人が広めたもの。
更に仙人は、多くの妖怪と契約して従える事さえして見せた。
今の神武八州で、忍びの里で守り神として崇められる大妖は、全てこの仙人と契約を交わした妖怪らしい。
さて、そのように異世界から降って来るものの多くはこの地で受け入れられていたのだけれど……、ある日、あまりに大きな災いが月を通って降ってきた。
それは熱を帯びた強い光で、人や大地だけでなく、神々の肉体をも、一瞬のうちに影のみ残して焼き尽くしてしまう。
しかもその光は、然程の時を置かずしてもう一度、つまり二回、神武八州の地に降り注いだのだ。
二度目の光は、流石に一度目で警戒していたので神々が張った防御が間に合ったが、それでも一度目の光は大地を焼き、そこに深刻な毒を残す。
その毒は、神々の力で浄化されたが、……それでも少なからぬ犠牲者が、人にも神にも出てしまった。
これまでこのような事はなかったが、短時間に二回、同じ災いが降ってきた事で、当然ながら神武八州の神々は三度目を警戒し、協議の上、月の扉を閉じる事を決意する。
そして閉じた月の扉の封印を買って出たのが、神武八州に住む人々の代表者となっていた仙人だった。
彼は真の月を己の身体で隠し、自らの両眼を偽りの月として空に浮かべる。
その時から、この世界の月は二つになったという。
仙人は、自らの身体で月を封印する直前に、多くの妖怪との契約を自らの弟子達に引き継いだ。
恐らくは、元よりそれを目的として妖怪との契約をしていたのだろう。
何故なら仙人は、妖怪の力なんて必要としない程に強かったから。
彼は自分の身に何かあっても、人の立場がこの神武八州で弱くならないように、強力な妖怪との契約を弟子の為に用意していたのだと思われる。
仙人の弟子は師に命じられた通り、妖怪の手助けを借りながら、教わった技術を人に広めた。
忍びの里も、殆どがその時に築かれたそうだ。
但し俗楽の花だけは、仙人の弟子ではなくて、仙人と大妖の一体、雪女の間に生まれた子が祖となったらしい。
本来、母体が妖怪であれば妖怪しか生まれぬのだけれど、雪女は腹に宿った人間の子を傷付けぬように、自らの陰気を封じ、生かしたままで生んだという。
陰気は妖怪の力の源だから、そんな事を擦れば当然ながら無防備になってしまうのだけれど、そうまでしても雪女は仙人の、愛した相手の子を産みたかったのだろう。
その無防備な雪女を、助けを求められた迷い館が匿って産屋となったのが、この里に複数の大妖が守り神として祀られる経緯なんだそうだ。
大妖が二体もいると、発する陰気が人に影響を及ぼしかねないからと、それを相殺できる聖獣にまで協力を頼み、俗楽の花は誕生した。
しかしこれで落ち着いたかと思われた神武八州には、もう一度大きな波乱がやって来る。
月の扉が封じられた事を知った外つ国の神々が軍を率い、その開放を求めて神武八州に攻め込んできたのだ。
災いの光が降り注いだのは神武八州の地のみだった為、外つ国の神々は、その脅威を知らぬから、月を封印するという行為に納得がいかなかったのだろう。
神武八州の神々は強力だったが、災いの光を受けて犠牲を出したり、それを防ぐ為、或いは月の封印に力を使っていたから、外つ国の神々に対して苦戦を強いられた。
けれども術の力を得た人の活躍もあり、どうにか外つ国の神々を退ける。
ただ、この戦いでも神々は多くの犠牲を出す事となり、次に外つ国の神々が攻めてきたら、神武八州を守り切る事はできないだろうと考え、ある決断を下す。
それはごく一部だけ、人を導く為の神を少数残し、他の神々は、既に倒れた神々の魂と共に神武八州の地に還り、外つ国の神々を寄せ付けぬ結界を張り巡らせる事だった。
この人を導く為に残った神が、今、都から神武八州の地を統べている皇だ。
そうして神武八州の地は今の形となり、それから千年の時を刻む。
尤も、その後、外つ国では神武八州と戦った神々が、自分達の力の一端を人が使えた事を目にし、兵力とする為に力の使い方を教え、その上で外つ国同士で盛大に争いを繰り広げ、今では外つ国にも神は殆ど存在しなくなったというから、神武八州の結界も無駄になってしまったのだけれども。
……さて、少し余談も混じったが、ここまでがこの神武八州の話で、あの鬼を理解する為の前提条件である。
あの鬼もまた、仙人と契約し、その弟子に契約を引き継がれた妖怪だった。
当時の名は、天邪鬼。
その頃の天邪鬼は、迷い館が小鬼と呼んだように、仙人と契約した妖怪の中では最も年若く、あまり強力な妖怪ではなかった。
しかし天邪鬼は機転が利き、物覚えも非常に良かったので、仙人は強力な妖怪になる才があると評価し、契約を交わして従えたそうだ。
なんでも重さや力は変わらぬが、大きさや性別等の姿だけは自在にできる変化の術を得意としたらしい。
さてその天邪鬼との契約を引き継いだ仙人の弟子は、緑斗という名の男である。
緑斗は術の類はからきしだが、気の扱いと、それを用いた戦いの才は仙人の弟子の中でも群を抜いていて、今でいうところの武芸者のような存在だったという。
いや、実際に武芸者の祖が、その緑斗になるのだろう。
緑斗は快活な男で、多くの弟子に慕われて、また天邪鬼も彼とは気が合ったし、更に能力的にも相性が良かったそうだ。
妖怪として、あまり強い方ではなかった天邪鬼を、緑斗は己の武力で守り、逆に天邪鬼の機転は、武にのみ偏っていた緑斗の窮地を幾度も救った。
仙人から弟子へと契約を受け継がれた妖怪の中には、仙人と比べ、弟子に物足りなさを覚え、契約に不満を覚えたもの……、例えば三猿忍軍の大猿のような妖怪も少なくなかったそうだが、天邪鬼に関しては、寧ろ緑斗に契約を引き継がれてからの方が、生き生きと、楽しそうに過ごしていたらしい。
けれども、そんな両者の関係は、緑斗の戦死によって終わりを迎える。
外つ国の神々が軍を率いて攻めてきた戦いで、雄々しく戦った緑斗は、その活躍が故に敵対する神の目に留まり、その命を奪われた。
力弱き天邪鬼は、緑斗を守る事も、その仇を取る事も……、それどころか敵対する神の目に留まる事もなく、何もできなかったそうだ。
尤もそれが切っ掛けで、天邪鬼が人喰いの鬼になったという訳ではない。
あぁ、いや、そこが全ての始まりではあったのだろう。
何しろ、そこで天邪鬼は緑斗の躯を喰らい、自らの非力な身体を戦いに適したものへと作り変えたのだから。
これまで天邪鬼が使っていた姿だけの変化の術とは違い、重さ、つまりは力も身体に見合ったものへと変化をさせて。
ただ、それでもその時の天邪鬼は、緑斗の代わりに戦場で戦い、彼が残した弟子を守る事に力を使った。
物覚えの良かった天邪鬼は緑斗の技を一つ残らず詳細に覚えていて、戦いに適した身体さえあれば、その技を存分に発揮できる。
気は使えずとも妖怪の身体に武芸が備われば戦うには十分で、また天邪鬼が戦う姿に人々は緑斗を思い出し、大いに勇気づけられたのだそうだ。
そして外つ国の神々が軍を引き、戦いが終わった後も、何十年かは緑斗の残した弟子達に技を伝え続けたという。
だが、その弟子達も、人である以上は寿命が訪れ、皆死んでしまう。
もちろんその更に弟子や、そのまた弟子等、多くの者に緑斗の技は引き継がれていたけれど、緑斗を覚えている者はいなくなり、独自の流派等も生まれてきた。
その頃から、天邪鬼は人に関わる事をやめ、辺境州にある己の支配地に引き籠る。
天邪鬼が己の支配地で、一体何をしていたのかはわからない。
けれどもそれから五百年が経った頃、ふらりと人里に現れた天邪鬼は、不忍の鬼を名乗って一人の武芸者と立ち会い、殺害して、その肉を喰らった。
それ以来、十数年から三十年に一度、武芸者を殺して肉を喰う事を繰り返しているという。
恐らく天邪鬼は、武芸者を喰い、その肉の付き方、身体の使い方を把握し、夢の中でその武芸者を相手に修練を積んでいるのではないかと、迷い館は考えているそうだ。
何故なら、次に現れる時、天邪鬼は以前に食った武芸者の技を、会得しているから。
天邪鬼の目的は、わからない。
単に自分が強くなりたいだけなのか、それとも、緑斗を忘れて己の流派を掲げる武芸者が許せないのか。
或いは、どうせ人は儚く死んでしまうのだからと、せめて朽ちぬ我が身に少しでも多くの技を刻み残そうとしているのか……。
いずれにしても、天邪鬼がこれまでに幾人もの武芸者を喰って、これからもそうするだろう事だけが間違いなかった。




