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炭谷の国で刃鉄の手入れをして貰った後は、更に北へ。
春も半ばを過ぎると流石に北方でも道の雪は解けているが、未だに何となく肌寒く感じる。
羯磨の国も越えて、俺はこれまでの人生で最も北に足を踏み入れるが、それでも俗楽の花の里はまだ先だ。
けれども八重曰く、俗楽の花の里よりも更に北には、冬には凍り付く海があり、その向こう側には、殆ど人が住まぬ極寒の辺境州があるという。
……凍った海は、一目見てみたい気もするが、果たして極寒の冬にそれを目にして、俺自身が凍らずにいられるのだろうか。
道中、ふと気になったので、三猿忍軍が守り神と崇めていた大妖はどうなったのかと、八重に問う。
すると彼女は少し考えた後、
「あすこの大幻猿様は、古い契約により三猿忍軍に支配地を貸し与えてはいましたが、自身は世に関わらぬと決め、目を塞ぎ、耳を塞ぎ、声を発さずにいると聞きます。何時か再び、自分の心に声を響かせる英雄が現れるその日まで」
そんな風に教えてくれた。
つまり、何も変わらずに、忍び衆とも関わらずに、同じ場所に居続けてるって事だろうか。
「三猿忍軍の存在意義は、大幻猿様に声を届かせる英雄を生み出す事でございました。ですが長き年月がそれも忘れさせ、彼らを滅亡へと導いたのでしょう」
八重の話に、俺は思わず眉をしかめてしまう。
……なんというか、随分と薄情な話にも聞こえた。
その大妖、大幻猿とやらが、たまに少しばかりでも声を掛けていたら、三猿忍軍は目的を、存在意義を見失わないで、他の忍びとの戦いなんてしなかったんじゃないだろうか。
大幻猿様と三猿忍軍が交わした古い契約とやらの内容は知らないし、彼らの関係もわからないが、少なくとも守り神として崇められていたなら、……なんて風に思ってしまう。
だが、守り神が声を掛けず、行動もしないのは寧ろ当たり前か。
いやそもそも、大妖は何だかんだといっても、妖怪である。
人の理屈が通じる存在という訳じゃない。
ただ、そう、大妖に話を聞く為に接触する忍び衆を、三猿忍軍にしなかったのは間違いなく正解だ。
話をしてくれない大妖じゃ、会っても意味がないし、仮に万一、話してくれたとしても、それはそれで非常に厄介な事になりそうだから。
あの時、俗楽の花との伝手を紹介してくれた芳信和尚に改めて感謝しながら、俺は北に向かって歩き続ける。
やがて街道を外れ、俺は八重に案内されながら、森に足を踏み入れた。
「どうぞ、手をお取りください。ここから先は、迷いの道。俗楽の花に属せぬ者が里に辿り着かぬよう、惑わしの術が掛かっております」
そう言って、八重が俺の手を取る。
……惑わしの術か。
果たして、そんなに可愛らしい代物なのだろうか。
俺の感覚は、今、相手の間合いに入ったと、しきりに警鐘を鳴らしてた。
尤もこれは、別にその相手に敵意があるって意味じゃない。
自分の脅威になる実力の持ち主なら、例えば柳才師のような味方であっても、間合いに入れば警戒心を呼び起こされる。
ただこの場合、問題となるのは、相手の姿がまるで見えぬのに、その警戒心を呼び起こされたという事。
あまりに広い間合いの中。
その気になれば、この間合いの主は何時でも俺の命を取ろうと手を伸ばせる。
これが、大妖の支配地なのか。
もちろん、だからといってここで退ける筈もない。
漸く、というには些か早かった気もするが、それでも旅を重ねてここに来たのだ。
それを無駄にはできないだろう。
「四木様、見てくださいませ。鈴蘭でございますよ」
後はまぁ、八重が何時になく楽しそうだから、細かい事はさておこう。
俺にとっては警戒心を呼び起こされる大妖の支配地も、彼女にとっては生まれ故郷なのだから。
不必要な警戒は、顔にも言葉にも出すべきじゃあない。
北の地にも花は咲く。
世界は俺の常識が全てじゃなくて、寧ろ知らぬ事だらけ。
旅を経験し、色々と見てきた今でも、それは少しも変わらなかった。
「八重、里はもう近いのか?」
手を引く八重に、俺は問う。
すると八重は少し考えてから、
「徒歩ならば夕刻前には到着するくらいでしょうか。もちろん走ればもっと早く着きますが、……そうなさいますか?」
逆に俺に問い返す。
まさか。
俺はどのくらいで到着するのかが気になっただけで、折角、八重が楽しそうなのに、それを邪魔する気なんてない。
一緒に楽しむというのは流石に些か敷居が高いが、楽しそうにしている彼女を見ているだけで、それなりに良い気分ではあった。
それからも暫くの間、俺は八重の話に相槌を打ちながらのんびりと歩いて、彼女の言う通りに夕刻前に、目的地である俗楽の花の里に辿り着く。




