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初めて足を踏み入れた場所だが、俺は迷わず真っ直ぐに進む。
迷う筈がなかった。
何しろ目的、俺が戦うべき相手は、ずっとこちらに圧を放って己の居場所を教えてくれているのだから。
しかし夜もすっかり更けてるとはいえ、建物の規模の割に、あまりに人が少ない。
ここは栄えた開戸でも最も大きな港町の、更に最も大きな建物だ。
もっと多くの人がいてもいいと思うが……、いや、その場合は、こんな陰気を含んだ圧を受けて、皆が無事でいられる筈もないか。
時折、警備の兵に出会って有無を言わさず意識を奪っているが、そういえば何故、彼らはこの圧の中で平気なのだろう?
普通の人間だったら、この場に立っているだけで命を削られてもおかしくはないというのに。
実力的には全く問題にはならないが、もしかするとこの兵士達も、単なる人間ではないのかもしれない。
一部の兵士は、入り口の歩哨と同じく、魂の抜けたような顔をしてるし。
まぁ、だが些事だ。
そこには何らかの意味があるのかもしれないが、しかし俺が考える事じゃない。
今、俺にとって大事なのは、遂に対峙した黒い舶来の鎧、舶来衆の幹部が一体、リッターとの戦いだから。
不必要な事に思考を避ける余裕はなかった。
「――――――――――」
鎧が鳴る。
それは舶来の言葉か、獣の唸りか、それとも単に鎧の軋みか。
何とも判別し辛い音だったが、俺はそれを名乗りだと受け取った。
根拠はないが、そう、そのように感じたのだ。
であるならば……、まぁ、名乗り返さなければ礼を失する。
夜分に武器を持って乗り込んだ身でどの口が、との思いもなくはないが、相手が武人であるならば、やはり名乗りは必要だろう。
昔、父に教わったのだけれど、名乗りは功名の為に必要な作法だ。
功名とは、功を立てて名声を求める事。
どんな難敵を倒しても、どんな大きな手柄を立てても、それを成したのが誰なのかわからなければ、名声を得る事はできない。
この言葉を聞いた時、俺はそれを、実に浅ましい考えだと感じた。
名を売る為に自分の名前を喧伝する。
それが名乗りなのだと。
だが父は、その俺の言葉に一度は頷き、それから首を横に振った。
名乗りにあるのは覚悟であると。
勝てば名声を得るけれど、負ければ逆にそれを失う。
その覚悟があるからこそ、武人は戦いの前に我が名を知らしめる。
また勝者は、その覚悟を汲み、敗者の名前を胸に刻むのだ。
故に名乗りは戦う武人の礼であり、誇りだと。
名乗りもせずに相手を斬るのでは、単なる賊と変わらない。
今の俺は、客観的に見ると賊になるのかもしれないが、けれどもあの鎧は俺に名乗った。
つまりあの鎧は、リッターは、俺を単なる賊ではなく、武人として迎え撃とうとしている。
一対一で、正々堂々と、なんて甘い事は言わない。
今、この瞬間も八重はリッターの隙を伺ってるかもしれないし、或いは既に五花を助けに行っているかもしれない。
同様に、舶来衆の兵士が、不意に俺の背を撃つ可能性だってある。
ここは道場じゃなく、戦いの場だ。
勝とうが負けようが、横やりが入ろうが、文句も泣き言も口にはせぬが、
「光陰流、四木・壮史」
名乗りだけは誇り高く。
どうせ、俺以外にはもう使い手のいない流派だ。
その名を聞かれたところで、誰にも迷惑は掛からぬのだから。
名乗りを終えるや否や、お互いの刃がぶつかった。
仕掛けたのは、全く同時。
長い廊下の端と端という間合いを互いに一瞬で踏み潰して、必殺の刃で切り結ぶ。
リッターの得物は舶来の直剣。
神武八州では見かける事のないその剣が、やはり見かける事のない構えから振るわれる。
けれどもそこには確かな術理が宿ってた。
ただ暴れるだけだった人百足とはまるで違う。
でも驚きはない。
組織を率いる舶来衆の幹部で、先程の名乗り。
予想はしてたし、期待もしていた。
何より、技を使う妖怪に出会うのはこれが二体目だ。
一歩進んで右半身、一歩引いて左半身、素早い構えの切り替えと共に振るわれる斬撃。
隙が無く、素早く、それに加えて妖怪の膂力で振るわれる剣だから、その重さ、破壊力も尋常じゃない。
そして更に厄介な事に、斬撃とは逆側から、陰気を強く含んだ圧が、俺の動きを抑え込もうとぶつけられる。
リッターは大きな剣を両の手で扱っているのに、まるで三本目の不可視の腕があるが如くだ。
つまり、左右からの同時攻撃。
しかも圧に含まれた陰気のせいで、リッター自身の陰気の動きが、次の動きが読み辛い。
正直に言って、想像していたよりも遥かに厄介な使い手だ。
……けれども、受け流して、受け流して、掻い潜って、気をぶつけて相殺して、一歩進んで切って、受けられて、切り返しを掻い潜って、先に刃を相手に届かせたのは俺の方だった。
踏み込みが足りず、いや、リッターの退きが速かったから、その鎧の表面に一筋の傷を刻んだのみだが、それでも今の刹那の攻防は、間違いなく俺が制した。




