理不尽が一番、教師に効く
木曜日の朝七時過ぎ。
教務室で一限目の授業の準備をしていた由奈は、疲れた表情で隣に座る宏太に声をかけた。
「おはよう、コウ君」
「あ、あぁ……。おはよ」
妙に覇気のない宏太の様子に、由奈は不思議そうな表情で、
「あれっ、いつもなら“コウ君言うな”っていうとこじゃなかった?」
「え、あっ、あぁ……」
「ねぇ、ほんとに大丈夫? 顔色も悪いし……。なんかあったの?」
由奈が言う通り、宏太の目元には濃いクマが深く残っていて、ついでに少しやつれたようにも見えた。
一方の宏太は、ゲンナリとした様子でマグカップに口をつけると、
「いや、“指導日報”に“引継調書”の内容まとめんのすっかり忘れてて、昨日の晩から寝れてねぇんだよ……」
「えっ!? “アレ”って、期限二日前だったはずでしょ?」
「ほとんど月曜日の内に終わってたんだよ。だけど、昨日お前の親父に呼び出されただろ? あの後にすぐ教頭から指摘喰らって、ずっと残ってた」
「えぇ……、言ってくれれば、一緒に手伝ったのに……」
何処か咎めるように言う由奈に、
「提出間際に押し付けた奴が何言うか……」
宏太は思わずボソッと口から溢す。
「んっ? 何か言ったかな?」
「い、いや……。そしたら今度は頼むわ……」
由奈の底知れぬ圧を感じた宏太は、額に汗を浮かべながら話を切り上げた。
その時、
「よっ、二人ともおはようさん!」
「おはようございます」
「うっす……」
威勢のいい声と共に、宏太の右隣が急に狭苦しくなる。
由奈と宏太がそれぞれ登校してきたベテラン教師――粟島に挨拶を返すと、
「なんだ? まぁーた宏太、由奈っちのケツに敷かれてたか?」
「またってなんすか……」
「私、お尻になんて敷いていませんよ?」
粟島は特に何も言わず、ただ豪快に笑い捨てた。
すると突然、教務室に珍しく一本の電話が鳴った。
由奈は迷わず受話器を取ると、
「おはようございます。悠久高等学校の長瀬です」
刹那、受話器を持つ由奈の表情が固まる。
「えっ……」
不意に驚きの声を上げた由奈の様子に、隣の宏太と粟島が怪訝な視線を向けると、
「はい……、少々お待ちください」
言いながら保留ボタンを押した。
「粟島先生……、その、警察からお電話が……」
「えっ、俺……?」
周りの空気が一瞬で緊張に包まれる。
ただ事ではなさそうなその空気に、粟島は気を引き締めた面持ちで受話器を手に取った。
「お電話変わりました、粟島と申します」
周りの教師も見守る中、粟島は電話越しの相手からの要件に耳を傾ける。
「……はい、そうですが……」
一言そんな肯定の言葉を返すと、粟島の表情が不安から驚愕に変わった。
「はっ!? 柿崎さんがっ!?」
突然粟島は声を上げた。
「わ、分かりましたッ! すぐ向かいますッ!!」
乱暴に受話器を置いたと思えば、先ほど背もたれにかけたばかりの上着を羽織りなおす粟島。
「すまんッ、急用ができた。悪いけど由奈先生、俺のクラス頼んでいいか? ホームルーム終わったら、そのまま授業で構わないから」
「えっ? べ、別にいいですけど……」
勢いに押され、由奈は困惑顔のまま頷く。
珍しく血相を変えて身支度を整える粟島の様子に、
「な、なんかあったんすか……?」
「悪いけど、説明してる時間はないんだ。とりあえず、あとで教頭から事情は聴いてくれッ!」
宏太の疑問を置き去りにしたまま、粟島は焦った様子で教務室を後にした。
残された二人は、ただ呆然と立ち尽くすように厚い背中を見送ることしかできない。
「新田先生……」
由奈は宏太に話しかける。
「な、なんだ……?」
「私たちのクラスは、大丈夫かな……?」
「……」
まるで虫の知らせを問うかのようなその疑問に、宏太は何も答えられないままただ立ち尽くすことしかできずにいた。




