焚火と権力には、抗えない
いまさらだが、宏太が教鞭をとる私立悠久高等学校は、新潟県長岡市の郊外―――悠久山公園のすぐそばにその校舎を構えている。
県内でも有数の進学校として知られる、いわば普通規模の高校だ。
赤いブレザーの制服に身を包んだ生徒たちは、進学実績を誇る一方で、個性的な顔ぶれも少なくない。
そんな校舎のすぐ裏手には、森に囲まれた小さな山が広がっていた。
市街地に近い立地にもかかわらず、裏山の中腹まで足を運べば、木々に遮られ都会的な喧騒は途絶える。
生徒たちの多くにとっては「校舎裏にあるただの雑木林」に過ぎないが、時折野外活動や体験学習で使われることがある、教師たちにとっては都合がいい場所だった。
そんな場所に貞夫から呼び出しを受けた爽と、担任の宏太、そして副担任の由奈は、指定された山の開けた場所に足を踏み入れる。
「……なにこれ」
由奈が目を丸くすると、思わず引き気味な声を漏らす。
五分咲きの桜の下に張られたタープに、ユラユラと小さな灯と共に揺れるランタン。
少し煤汚れた焚火台の上には、時折パチパチと音を立てながら薪が燃えている。
しかもその周りには、簡易テーブルと四脚の折り畳みチェアが人数分揃えられており、それはまるで雑誌に出てくるキャンプの一幕のような光景だった。
その中心で悠然と腰を下ろしている人物――悠久高校の長にして由奈の父である貞夫は、宏太たちの存在に気づくと、
「やぁ、よく来たね」
融和で優し気な笑顔を向けながら、彼らを素直に出迎える。
「な、何してんすか……?」
「見てのとおりだよ。焚火の前で、お茶淹れて待ってた」
「いや、そういうことじゃなくて……」
呆れた様子で顔を引きつらせる宏太に気を留めることなく、貞夫は何処か楽し気にタープ下へ爽たちを招き入れる。
「さぁ、座って座って。菅谷君も、温かいの飲もう」
促された爽は、戸惑いながらも椅子に腰を下ろした。昨日の騒ぎのせいか、胸の奥にまだ重たい影を抱えているようにも見える。
仕方なく宏太と由奈も、用意されていた低めの椅子に腰を下ろした。
日が沈みかけている山の中―――。
四月中旬のこの時間帯は、陽の光が暖かくなってきたとはいえ、まだ空気は冷たい。
だが不思議とテーブルの周りは、焚火のおかげか、じんわりと暖かさが帯びていた。
一方、テーブルの上では、細長いガスボンベが接続されたコンロの上で、小さなケトルが湯気を上げ始める。
貞夫はすでに用意していたらしいコーヒーサーバーの上に置かれたドリッパーに、沸かしたお湯をゆっくりと注ぎ入れた。
サーバー内に黒い液体が満たされていき、挽きたてのコーヒーの香りがタープ下を包んでいく。
やがて、淹れたてのコーヒーをサーバーから紙コップに注ぐと、
「はい、温かいうちにどうぞ」
貞夫は爽にカップを差し出した。
爽は両手で抱え、「ありがとうございます……」と、逡巡しながらカップの表面に視線を落とす。
だが、香ばしい香りに眉をひそめ、唇が硬く閉ざされたまま動かなかった。
そんな遠慮がちとも違う爽の様子に、
「爽くん……もしかして、コーヒー飲めない?」
隣で見ていた由奈が、そっと声をかけた。
「……は、はい。実は、ちょっと……」
爽は素直に打ち明けると、気まずそうな表情で、カップの中身に再び視線を落とす。
すると貞夫は何処か思い出したように、
「おっと……、ならこっちのほうがいいかな」
手元のバスケットを開けると、ティーバッグに砂糖、そして小さなミルクポーションが納められていた。
貞夫はもう一つ紙コップを用意してティーバッグの封をあけると、お湯を注ぎ入れる。
「こっちなら、寝る前でも安心だよ。カフェインレスだしね。あっ、ミルクと砂糖はお好みで」
「……ありがとうございます」
爽は差し出されたカップを見て、ほんのわずか肩の力を抜いた。
だがその手は寒さのせいか、かすかに震えている。
琥珀色の液面越しに、爽は火の揺らぎが映り込む光景を眺める。
「温かい飲み物は、温かいうちに。さぁ、冷めないうちに飲もう」
宏太の分のコーヒーを注ぎ渡すと、貞夫は穏やかな口調で言いながら、火の揺らめきを見つめる。
パチパチと小気味いい音が響くこの空間は、校舎や街の喧騒から離れた、ゆっくりとした時を刻んでいた。
貞夫はステンレスのカップでひと心地つくと、周りの三人も倣うように、ふんわり湯気が立つカップに口を付ける。
口にした温かい飲み物は、じんわりと爽たちの身体の内から温めた。
焚火の炎を見つめながら、宏太は一息つくと、
「……んで、俺たちはなんでこんなことに……?」
ぼそりと呟くように、貞夫に疑問を口にする。
「なんで、って?」
貞夫は燃える薪を火ばさみで突きながら、なんてことのないように答える。
「校長が教師や生徒とコミュニケーション取ろうとするのは、別に変な事じゃないと思うけど?」
火ばさみを置いて、今度はテーブル脇に置かれている道具に手を伸ばす。
慣れた手つきで、貞夫は革製の鞘からコンパクトな鉈を取り出した。
徐に薪を刃にあてると、もう片方の手で薪を持ち、その峰をカンカンと叩く――いわゆるバトニングをし始める。
そんな校長の姿に、由奈は苦笑いを浮かべ、宏太は諦めたようにコーヒーを啜った。
一方の爽は、どこか居心地悪そうに、ただ両手に持つコップへ視線を落としていた。
薪を割る甲高い音が山にこだまする。
あらかた薪を割り終えると、貞夫は程よくなった太さの薪を焚火台にくべ始めた。
火ばさみで薪に空気の通り道を作りながら、
「そういえば君、女の子とのことでちょっと苦労しているらしいね」
貞夫は何気ない調子で、爽に問いかける。
話題が自分のことに移った瞬間、爽は反射的に肩を震わせた。
一方の爽は、わずかに顔を歪めると、
「は、はい……」
案外素直に肯定する。
彼はそれ以上のことは口にせず、何処か誤魔化すように、紅茶をもう一啜りした。
これに貞夫はただ、「そっか……」と言うだけで、再びステンレスのカップに口をつける。
「そういや、昨日もなんか騒いでたよな? ありゃなんだったんだ?」
宏太がふと口を挟むと、爽は他の当事者がいるわけでもないのに、何処か弁解するような口調で口を開いた。
「昨日は……、帰ろうとしたら下駄箱に手紙が入ってて、呼び出されていた場所に行ったら、いつの間にかあんなふうになっちゃってて……」
「帰りの下駄箱に手紙て……、平成の青春ドラマかよ……」
宏太の素直すぎる感想に、由奈がジトっとした目を向けた。
だが宏太はおろか、貞夫もまた由奈の静かな訴えを気にした様子もなく、
「確かに、なんか懐かしいシチュエーションだねぇ……」
そんな、どこか的を外したような感想を漏らした。
「いや、そんないいものじゃなさそうじゃん……」
由奈が耐え切れず、ボソりと独り言のように漏らす。
この場にいたメンバーの中で、唯一その声を拾った爽は、
「あはは……」
と乾いた笑みを浮かべた。
「でもよ、今時スマホもあるのに……、下駄箱に手紙って、なんか遠回りしてねか?」
宏太がさらに素直な疑問を溢す。
「っ……」
宏太の言葉に、爽の喉がきゅっと詰まった。
「それは……」
少し間を置くと、爽はポツポツと口を開く。
「……それはたぶん、連絡先、交換してないから……」
「マジで? でも今時、インスタとかでも誰かしらと繋がってるもんじゃねーの?」
「僕、SNSはLINE以外やってないです……」
宏太のふとした問いに、爽は短く答えた。
そして爽は少し間を置くと、ぽつぽつと続けた。
「……実は僕……、女子が苦手なんです」
陽介や一部の友人にしか話したことがない弱さを、初めて教師に漏らす。
由奈が小さく目を見開き、宏太は鼻を鳴らした。
「は? お前、あれだけモテてて苦手って、どういうことだよ」
爽は口を閉ざし、言葉を探すように視線を落とす。
「……モテるとかじゃなくて。勝手に告白されて、ちゃんと断れなくて……。曖昧にしちゃって、結局、みんなを傷つけて……」
情けなさを滲ませた声は、焚火の音にかき消されそうに小さかった。
宏太は呆れたように鼻を鳴らし、探るように問いかける。
「……お前、前に何かあったのか?」
その一言に、爽はびくりと肩を震わせた。
視線を落としたまま、唇を噛みしめる。
脳裏に蘇るのは、中学時代の先輩との一件。
走馬灯のようにフラッシュバックしていく記憶の数々に、爽は手に持った紙コップに思わず力を込める。
「……」
爽は喉が詰まり、言葉が出ない。
紅茶の温かさすら、そこに安らぎを与えてはくれなかった。
(あちゃー……、こりゃ地雷だったか……)
内心で宏太は焦りを覚えるも、貞夫の表情は特に変わりない。
宏太は何かを言おうとして、結局言葉に詰まった。
クラスを担当するようになったとはいえ、根はまだ未熟な教師でしかない宏太は、どう励ませばいいのか分からなかった。
代わりに、貞夫が静かに声を引き取る。
「……なるほどねぇ」
貞夫はコップの中身をすべて飲み干すと、再び火ばさみを手に取って薪を突いた。
そして、何でもないことのように、
「菅谷君、君は今何か、熱中してるようなこととかは、あるのかな?」
「えっ?」
「僕はね、見て分かると思うけどキャンプには目がなくてね」
爽の呆けたような短い聞き返しに、貞夫は気にした様子もなく続ける。
「ここにある道具は、昔から大切に使ってるものもあれば、先週買ったばかりの物もあるんだ。たまにやりすぎて、由奈先生に怒られちゃうこともあるんだけどね」
少し由奈の視線を気にする素振りを見せるも、貞夫は飄々とした表情のまま、
「だけど、自分の趣味と言えるものに打ち込んでる時間ていうのは、鈍感になった自分の考えを研ぎなおすのに最高なんだ」
言いながら貞夫は、爽にまっすぐな視線を向ける。
「菅谷君、君は今、好きな事とか興味がある事とかはあるかい?」
「僕の……、興味……」
答えに迷う爽の様子に、貞夫は優し気な笑みをたたえると、
「無理にひねり出さなくてもいいよ。もし君が今打ち込めることが無くても、これから見つけて行ければいいと思う。この高校で過ごす三年間の中で、君が一つでも価値を感じるものと出会えるといいね」
貞夫の言葉に、爽は何かに気づかされたような表情で目を見開く。
どうやら爽の中で、貞夫の言葉はとても響くところがあったのだろう。
確かにその言葉の一つ一つは、今の宏太には自然と口にすることができないことばかりだった。
貞夫の言葉は、校長という色眼鏡を抜きにしても、彼だからこそ響く力があったのは事実だ。
(これが、“教育”か……)
宏太もまたしみじみと心の中で考えながら、焚火の炎をぼんやりと眺める。
自分の教育論というものはまだはっきりしていない。だけど宏太の中で、決定的に確かな“何か”が、自分にはまだ足りないと突き付けられた。
(こりゃ、俺もまだまだ、だわな……)
そんなことを思いながら、宏太は少しふてぶてしくその口角をあげることしかできなかった。
やがて薪が弾ける音が数度響いた。
しばらく間が開き、四人がそれぞれ飲み物を啜る音だけが時折響く。
ちらっと、爽の方に宏太が視線を向けてみると、彼はどうやらすでに落ち着きを取り戻しているようだった。それどころか、焚火のおかげか少しリラックスし始めているようにも思える。
爽のそんな変化に気づくと、宏太もまた、自分が少しだけ自然とリラックスしていることを自覚した。
だからだろうか。
「それにしても、たまにはこういうのもいいな」
宏太は自然と、そんな独り言をポツリと漏らす。
「確かに、外で飲む暖かい飲み物って、なんかいつもと違っていいね」
由奈が頷き、両手でカップを優しく包み込んだ。
それに貞夫は、
「おっ! 二人とも分かってくれた?」
とテンション高く、コップを掲げる。
するとしばらくして、貞夫の表情にふっと笑みが深まった。
「……よし、これはいいきっかけになりそうだ。せっかくだから、これを“居場所”にしてみようか」
宏太が怪訝そうに眉をひそめる。
「居場所、っすか?」
「そうそう」
意気揚々に頷きながら、貞夫は続ける。
「菅谷君みたいに、ちょっとした悩みを抱えている子たちが集まれる場所だ。―――名付けて、“アウトドア同好会”、なんてどうかな」
由奈が目を瞬き、宏太は大げさにため息をつく。
「まーた、思い付きで動くつもりですか? 校・長・先・生っ?」
どこか圧を感じる由奈の笑顔。
それでも、焚火の炎に照らされた貞夫の笑顔は揺るがなかった。
「いやいや、思いつきこそが人生を面白くするんだよ」
コーヒーをまた一口含んで、鼻からその芳醇な香りを吐き出す。
「よし、決まりだ」
そして貞夫は、声高らかに宣言する。
「二人とも顧問と副顧問、そして菅谷君、君が部員一号にして会長だ!」
宏太と由奈に視線を順に向け、最後にコップを爽に突き出しながら宣言した。
そのいきなりすぎる無茶苦茶な戯言に、
「はぁ!?」
三人の声が重なった。
「ちょ、ちょっと待ってお父さん!」
由奈が慌てて抗議するが、貞夫は聞く耳を持たない。
「君たち三人が最初のメンバーだ。今後は定期的に自然の中でコミュニケーション能力を養うことを目的に、活動していくこととする」
強引に宣言すると、まるで乾杯でもするかのように手元のカップを掲げた。
呆れ顔の宏太も、しぶしぶコーヒーを一口。
「……め、めんどうなことになったな……、ったく……」
焚火がぱちりと弾ける。
由奈が必死に貞夫に何かを訴えるが、貞夫はまともに取り合うこともなくただ笑い飛ばすだけだった。
大人たちがそれぞれ個性的な反応を見せる一方で、爽は少し顔を引きつらせながらも、
(な、なんか……、大変なことになっちゃった……)
大きな不安と、ほんのわずかな期待が入り混じった感情に苛まれながら、ぬるくなった紅茶を飲み干す。
とはいえ、こうして“アウトドア同好会”は、半ば強引になぁなぁのまま産声を上げた。




