Re:013 あるべき姿ではあるような
新しいことを始めるとき、ドキドキしたのを覚えている。
進級して誰も知り合いがいない教室に入るとき。新しい趣味に挑戦したとき。新しい街に引っ越したとき。初めての路線。就職初日。
いろんなことがあったけど、イケメンにじっと見守られているのは初めてだ。
「…………大丈夫ですか?」
心臓がバクバクと跳ねておさまらない。声を出せずにただこくりと頷く。
「…………では、スピードを上げますね」
フラクトさんは相変わらず表情を変えずに、手元のモニターと私とをゆっくり交互に確認して無慈悲に言った。
ピッと音がして、私の乗る滑車のような機械がウィィィィンと低く唸りだす。
「っ……、はぁ……、ちょ、ちょ、まって! 早い早い早い!!」
スピードを上げだしてそう経たずに私はギブアップした。
「…………問題ない数値だと思います。おつかれさまでした」
ぜえぜえはあはあ、文字通り肩で息をするというのはこのことだろう。久しぶりに全力疾走した。というか走ること自体が久しぶりだった。終電に間に合わずに走ったりした日もあったけれど、いつからか諦めて途中までタクシーに乗ったりもしたなぁ。そんな日々に嫌気がさして転職したっていうのに、転職先も終わってたからなぁ。
汗と一緒に嫌な思い出も流れでてきたようだった。
「こちらをどうぞ」
「あ……ありがとうございます」
フラクトさんから紙コップを受け取る。中身は……おそらく水だ。飲んでもいいのかな。大丈夫かな。一瞬考える。でも既に得体のしれないカフェオレを飲んだのを思い出して、一気に水を飲みほした。
美味しい。水ってこんなに美味しかったっけ。
「足りなければ、そちらにウォーターサーバーがありますのでご自由にどうぞ」
「ありがとうございます!」
火照った体に水分が浸み込んでいく感じ。冷たさがじんわりと溶けていく。
もう一杯飲もうといそいそとウォーターサーバーに近づいてふと気づく。
「この後ってまだ、走ったりします……?」
この後また運動が待っているのであれば、ここでおかわりをしてしまうとお腹が痛くなる可能性がある。あれってなんでなるんだろうな。高校の頃、体育の授業中によくなったっけ。お腹が痛くなるかもと思いつつも、体が水分を欲しているのには抗えなかったんだよなぁ。持久走とかだと特にって感じだったけど、小休止のあとまた走らされるとわかっていても飲まずにはいられなかったよねぇ。
「……いえ。以上で体力測定は終了です。おつかれさまでした」
「やったー!」
思わず叫んでしまって、小さくすみませんと謝る。何やってんだか。
というわけで安心して水をおかわりした。うん、やっぱり美味しい。地元の水も美味しいなと思っていたけど、それとは数段違う美味しさがある。
「……それでは着替え終わりましたら自分にお声がけください。次は簡単に部内を案内させていただきます」
「わかりました。お待たせしてすみません、急いで着替えてきますね!」
「……休憩も兼ねていますから急がなくても大丈夫です。自分はここでも仕事ができますので」
「お気遣いありがとうございます」
フラクトさんにお辞儀をしてから更衣室へと向かった。
トレーニングルームに併設された更衣室は、トレーニングウェア貸し出し、シャワー完備。タオルだけでなく、シャンプーや化粧水などのアメニティまである。ドリンク無料、プロテインバーなんかも置いてあった。これが全部無料と言うのだからちょっと怖い。ちゃんと消費してる人いるのかなとか、思わず考えてしまった。
しかしハムスターの滑車のごとく走らされることになるとは思わなった。SF映画にでも出てきそうな回転式ランニングルームみたいだったな。
宇宙飛行士の訓練ならともかく、私はただのライターなんですけども。
思ったよりも汗をかいたので、軽くシャワーだけして着替えることにした。
シャワールームに入るとボタンが複数あって、謎な絵文字が並んでいる。泡っぽいものとか、雷のようなものとか。興味はあるけれど、今はフラクトさんを待たせている。ここで働き続けるのであれば、また来る機会もあるだろう。もしくは知ってる人に聞いた方が安全かもしれない。というわけで好奇心には蓋をしてさっさとシャワーを浴びた。
実に水圧の良いシャワーだった。
住んでいたマンションで唯一不満があるとしたら、シャワーの水圧だと言える。
快適すぎる空間にダメになりそう。いや、住める。むしろ住みたい。ここで働かせてくださいと頭を下げて住み込みにしてもらいたいくらい。……まあ働くことにはなったんだけど、そういえば私ってどこに住むことになるんだろうか。通勤……? まさかね。
トレーニングルームの入口に向かう。
ソファに座ったフラクトさんが見えた。何やら手元のモニターで作業をしているようだった。
イセイさんは手で操作していたけど、フラクトさんは音声操作なのかな。微動だにしないフラクトさんと忙しなく動く画面が印象的だった。
「すみません、お待たせしました」
「…………いえ。休憩は充分ですか?」
「はい、大丈夫です!」
「そうですか」
手元のモニターを閉じて、フラクトさんは立ち上がった。
「それでは行きましょう。戻りながらの説明になりますが……――」
フラクトさんが途中で少し考え込んで、それから小さく頷いた。
「……自分たちの部署とは直接関係はないのですが、ここから近いので、よければ点国のほうも見学してから戻りましょうか?」
点国。字国とは反対――つまり絵師さんたちのテリトリー。
「とはいえ、入口は仕切られていますし、今日は自分も入室許可がないので、窓越しになってしまいますが……」
「せっかくなのでぜひ! 見たいです!」
「……そうですか。では、行きましょうか」
半ば食い気味に返事をして、フラクトさんの後をついて通路を進んでいく。
「……あちらが、点国の作業場です」
「ふぁ……」
窓――というには大きすぎる巨大なガラス越しに見えたフロアは、こちらもとんでもない広さだった。ライター側のフロアが自然や緑が多いのとは違い、絵師さんたちのフロアはよりデジタルな機器が多いように見える。神様が見せてくれた映像に映っていたのと同じように、デスクが並び、各々イラストや漫画だろう作画作業をしているようだった。立体映像を回転させながら操作をしている人は、もしかして3Dアーティストとかなのかな。直接触って操作をするのも楽しそうだ。私は粘土なんかの立体造形も中の下、良くて中の中しか美術の成績はない。興味はあるけど、持ち前のセンスもたかが知れてるし、未知のガジェットやツールを前にしても続けられる自信はわいてきそうにない。
デスクの周りには推しなのだろうキャラクターを並べている人たちも多かった。もしかしたら、私の好きな作品を好きな人もいるのかもしれないなぁ。
でも、思っていたよりも人がまばらだ。もっとぎっちりデスクが埋まっているようなイメージがあったけれど、今はデスクにぽつぽつと人がいるだけで、そこまで人がいる感じはしない。
「……業務に慣れてきましたら、そのうち点国の方とお話をする機会も出てくると思いますよ」
「そうなんですか?」
「はい。自分たちと向こうで打ち合わせをすることもありますので……」
フラクトさんはまるでこちらの心を読んでるかのように説明をしてくれるので、タイミングに驚かされてばかりだ。それくらい私がわかりやすく興味津々という顔をしていたからなのかもしれないけれど。
「……基本的には許可を取らないとお互いに入室できないようになっています。少し不便かもしれませんが、コミュニケーション自体はネット上で行うことが多いですから、そこまで問題にはならないかと思います」
「確かに。ここ、ものすごく広いですもんね……」
「はい。移動の時間や手間もありますが、そもそも点国の方はかなりアクティブなので、会いに行こうとするほうが難しい場合が多いです」
私が知ってる漫画家さんも、原稿作業だけでなく、担当さんとの打ち合わせや出版社のイベントなどあちこち忙しくしている印象があった。大半は原稿に追われている印象はあったけれど、どうやって時間を捻出してるのかというスケジュールで動いている人もいた。あくまでも『私が絵を描くとして』の時間計算で考えてしまっているから、実際には全然違うのだろうけど。
「そうなんですね。アクティブっていうと、やっぱり打ち合わせとかの量が多かったりとかそういう感じですか?」
フラクトさんは小さく首を横に振った。
「推し活です」
「……はい?」
「推し活です」
綺麗な声で二度同じ単語が聞こえてきたのに、私の頭は『推し活』の単語を認識できずにいた。




