空中散歩
「さて、と」
情報屋の店を出て、再び冒険者たちが行き交う通路に戻ったところで、エリスさんが気持ちを切り替えるようにパン、と一つ手を叩いた。
「厄介な情報は手に入れたわけだし、長居は無用ね。とっとと次の階層へ向かいましょうか」
「賛成です。目的地は中継都市ガルドラン、でしたね」
私が頷くと、エリスさんは隣を歩くピヨの巨体をちらりと見て、腕を組んだ。
「ええ。ここからなら、第11階層を抜けて……順調にいっても徒歩で一日はかかるわね……」
その、あまりにも現実的な計画に、私は小さく首を傾げた。
「徒歩、ですか? ピヨに乗って行くのはどうです?」
私のその言葉に、エリスさんは呆れた顔でこちらを振り返った。
「本気で言ってるの、あなた? ここは空の開けた草原じゃないのよ。この先の通路、彼が翼を広げて通れる保証なんてどこにあるの?」
「この階層から先は、古代都市の遺跡区画でしたよね? 天井も高く、広々とした造りになっているはずです。それに、少し窮屈でも、ピヨなら器用に飛んでくれますよ。ね?」
私の言葉に応えるように、ピヨが「キェェ!」と自信満々に一声鳴いた。
エリスは、私とピヨの顔を交互に見比べ、やがて深いため息をつく。
「……あなたとあなたの相棒がそう言うなら、信じるしかないようね」
ちょうど通路が少し開けた広場に出たところで、私はピヨの首筋を優しく撫でた。
「というわけです、ピヨ。少しだけ、空の散歩をお願いできますか?」
「キェェ!」
ピヨは心得たとばかりに翼を広げ、私たちが乗りやすいように、その場で低く屈む。
「さあ、エリスさん。特等席へどうぞ?」
私がそう言って促すと、彼女は少しだけ躊躇うように、しかし覚悟を決めた顔で頷いた。
「……落ちても、あなたのせいだからね」
エリスさんはそう言いながらも、身軽な動きでピヨの背中へと乗り込んだ。
羽の付け根にあるふさふさとした体毛を、少しだけおっかなびっくりといった様子で掴んでいる。
私も彼女の後ろに続くと、慣れた仕草でピヨの首筋をぽんと叩いた。
「では、出発します。しっかり掴まっていてくださいね」
「言われなくても!」
ピヨが翼にぐっと力を込める。
バサッ、と一度、力強い羽ばたき。巻き起こった風が広場の埃を舞い上げ、私たちの身体がふわりと宙に浮いた。
「わっ……!?」
エリスさんが小さく悲鳴を上げる。
最初は数メートルだった高度が、翼を数回はばたかせせるうちに、ぐんぐんと上がっていく。
眼下に見えていた石畳が、あっという間に遠ざかっていく。
ピヨは狭い通路をものともせず、器用な翼捌きで風を捉え、ぐんぐんと加速していく。
天井の光ゴケが、まるで星空のように私たちのすぐ側を流れていった。
「ちょっと、もっとゆっくり飛びなさいよ! 壁にぶつかるわ!」
「大丈夫ですよ。ピヨは飛ぶのが上手ですから」
最初は固く目を閉じていたエリスさんも、やがて恐る恐る目を開き、眼下に広がる光景に息を呑んだ。
先ほどまで自分たちが歩いていた通路が、今はもう遥か下に見える。
時折すれ違う他の冒険者たちが、まるで豆粒のようだ。
「……すごい……」
ようやく絞り出した声が、風の中に溶けていく。
「迷宮が、こんなに広く見えたのは初めてだわ……」
「でしょう? 地上を歩いているだけでは見えない景色です」
私のその言葉に、エリスさんはもう何も言い返さなかった。
ただ、子供のように目を輝かせ、流れていく景色を夢中で見つめている。
その横顔を見て、私は満足げに微笑んだ。
どうやら、私の新しい相棒は、もう一人の相棒にも、すっかり気に入ってもらえたらしい。
ピヨの翼が風を捉えるたび、私たちは迷宮の深層を鳥のように駆け抜けていく。
眼下には、次々と階層の景色が移り変わっていった。
灼熱の溶岩が川となって流れる第11階層も、嘆きの幻影が旅人を惑わすという第12階層も、私たちはその遥か上空を、まるで何事もなかったかのように通り過ぎていく。
「……見て。下の冒険者たち、私たちに気づいて口をぽかんと開けてるわ」
エリスさんが、眼下を指差してくすくすと笑う。
見れば、溶岩地帯で足止めを食らっていたらしいパーティが、空飛ぶ私たちを唖然として見上げていた。
「きっと、幻覚か何かだと思っているでしょうね」
「それなら、少しだけ手を振っておきましょうか」
私がそう言って手を振ると、エリスさんは「やめてあげなさいよ、本気にしたら可哀想でしょ」と笑いながら私の手を押しとどめた。
こんな軽口を叩けるくらいには、彼女もすっかりこの空の旅に慣れてしまったらしい。
旅は、驚くほど順調だった。
時折、空飛ぶ魔物の群れに遭遇することもあったが、ピヨが威嚇するように一声高く鳴くだけで、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
空の王者の風格は、伊達ではないようだ。
そんな穏やかな飛行の途中、ふと、私のモノクルがある一点を捉えた。
第13階層、垂直に伸びる巨大な樹々が林立する「天衝樹林」と呼ばれるエリア。
その一角に、不自然なほど広範囲にわたる破壊の跡が残っていた。
(……この破壊痕……普通の魔物の仕業ではありませんね。もっと……統率の取れた、組織的な戦闘の跡。まるで、軍隊が通った後のようです)
やがて、ピヨが緩やかに速度を落とし始める。
前方に、巨大な石造りの門が見えてきた。
第14階層の最奥、中継都市ガルドランへと続く最後の関門だ。
「……もう着いたの? 信じられない……」
エリスさんが、名残惜しそうに呟く。
徒歩で一日かかると言っていた道のり。それが、もう目の前にある。
「では、ここからは徒歩でいきましょうか。あまり派手に街に入るのも、面倒事を呼びそうですしね」
私のその言葉に、エリスさんは深く頷いた。
ピヨは私たちの意を汲んで、門から少し離れた岩陰に、静かに舞い降りた。
私は感謝を込めて、彼のふさふさとした首筋を何度も撫でる。
「ありがとうございます、ピヨ。おかげで、あっという間でした。さて、ここからはあの街まで一緒に歩いていきましょうか」
「キェェ!」
ピヨは嬉しそうに一声鳴くと、私の肩にその大きな頭を優しく擦り付けてきた。
その光景を見ていたエリスさんが、信じられないという顔で口を挟む。
「……ちょっと待ちなさい、リィア。本気で彼を街に連れていくつもり?」
「ええ、もちろん。私の大切な相棒ですから。野ざらしにしておくなんて、かわいそうなことできません」
私のその、あまりにも当然といった様子の言葉に、エリスさんはとうとう頭を抱えた。
「かわいそうとか、そういう問題じゃないのよ! あれは街よ!? グリフォンがのしのし歩いていたら、衛兵どころか騎士団が飛んでくるわよ!」
「大丈夫ですよ。ちゃんと手続きを踏んで、私の従魔として登録しますから」
「そんな簡単な手続きで済むと本気で思ってるの!?」
彼女の肩をぽんと叩く。
「案ずるより産むがやすし、ですよ。さあ、行きましょうか」
「……もうすでに、とんでもなく派手だと思うけど……」
エリスさんのその呟きは、ピヨの歩き出す足音にかき消された。
私たちは、一人と一人、そして一匹の奇妙なパーティとなって、ガルドランへと続く最後の道を歩き始める。
石畳はひんやりとして、どこか厳かな空気を漂わせていた。
道行く商人や冒険者たちが、ピヨの巨体を見ては悲鳴を上げて道を譲っていく。
その度に、私は申し訳なさそうに会釈し、エリスさんは深いため息をついた。
やがて、門はもう目と鼻の先まで迫っていた。
街の喧騒が、分厚い扉の向こうから、地鳴りのように微かに伝わってくる。
――その時だった。
私が、ふと足を止める。
「どうしたの、リィア?」
エリスさんが、訝しげに私を振り返る。
私は答えず、ただ鼻腔をかすめた匂いに、全神経を集中させていた。
それは、街の喧騒や生活の匂いとは明らかに異質なものだった。
「……エリスさん」
私は、門の隙間から漏れ出してくる空気を指し示す。
「この先の空気……少し、鉄臭いですね」
その言葉に、エリスさんの表情が一瞬で険しくなった。
血の匂いだ。
中継都市ガルドランの入り口で、一体、何が起きているのか。
私たちの到着は、どうやらただの平穏なものでは終わらないらしい。




