学院へ
エレーナさんが旅立ってから、数日が過ぎた。
彼女が残してくれた世界地図は、今や私の部屋の壁に大きく広げられている。
「……すごいね、リィア。この地図を見ていると、なんだか胸がどきどきする」
ベッドに腰掛けたミエルが、地図を眺めながら呟く。
「ええ。私たちの知らない世界が、こんなにも広がっているんですから」
私も、地図から目を離せない。
エレーナさんとの出会いが、私の心の中に、確かな火を灯した。
いつか、この地図に描かれた場所を、自分の足で歩いてみたい。
「……でも」
ミエルが、少しだけ不安そうに口を開く。
「今の私たちじゃ、この森から一歩出ただけで、迷子になっちゃうかも……」
彼女の言う通りだった。
憧れだけでは、旅はできない。外の世界で生き抜くための、知識と、力がなければ。
「……ミエル」
私は、隣で少しだけ落ち込んでいる、親友の顔を見た。
「エレーナさんが、言っていましたよね。旅をするには、まず世界を知ること、そしてそれぞれの土地のルールを知ることが大切だって」
「うん……」
「私たちも、まずは学びましょう。外の世界へ出るための、準備を。この森の外で、一番たくさんの知識が集まる場所で」
私のその言葉に、ミエルははっと顔を上げた。
彼女の瞳に、私が言わんとしていることを察した、輝きが宿る。
私たちは、顔を見合わせて、にっと笑った。
その日の夕食は、ミエルの家族も一緒だった。
セレナさんがいなくなって、少しだけ寂しくなった食卓を、ミエルのお母さんが作ってくれた美味しい料理と、お父さんの穏やかな笑顔が、温かく満たしてくれていた。
食事が一段落した、その時。
私とミエルは、顔を見合わせると、意を決して椅子から立ち上がった。
そして、四人の親たちに向かって、深く頭を下げる。
「お父さん、母。トルヴィンおじさん、エララおばさん。私たち、アルボリア学院へ行きたいんです」
一瞬、しん、と静まり返る食卓。
四人の親たちは、驚いたように目をぱちくりとさせていた。
私は、どんな反対の言葉が飛んでくるかと、少しだけ身構える。
だが、最初に聞こえてきたのは、父の、どこか楽しげな笑い声だった。
「……そうか。エレーナ殿に、すっかり火をつけられたようだな」
「まあ、二人で決めたのね。素晴らしいじゃない!」
母は、そう言うと、嬉しそうに手を叩いた。
ミエルのお父さんも、誇らしげに頷いている。
「うちの娘が、リィアちゃんと一緒にか。……いいだろう。最高の薬師になってこい」
「応援するわ、二人とも!」
ミエルのお母さんも、満面の笑みだ。
……あれ?
反対、されないの?
私が、拍子抜けした顔で固まっていると、母が楽しそうに言った。
「学院の入学試験は、春の始まりの日だったわね。あと二月ほどかしら。それまでに、ちゃんと準備するのですよ」
父も、呆れたように続ける。
「なんだ、その顔は。お前たちが、いつかそう言うだろうということは、エレーナ殿が来てから、とっくに分かっていたさ」
「ええ。あなたたちの夢だもの。私たち親が、反対するわけないじゃない」
母のその言葉に、ミエルと二人、顔を見合わせる。
そして、堪えきれなくなって、同時に吹き出してしまった。
私たちの心配は、全部、取り越し苦労だったみたいだ。
それからの一月は、本当にあっという間だった。
私とミエルは、二ヶ月後の試験日に向けて、来るべき学院生活に胸を躍らせながら、毎日、準備を進めていた。
(よし、この二月で、まずは人間語の基礎文法を完璧にしておこう。学院の図書館には、もっとすごい本があるはずだから)
私は書斎で、そんな風に自分だけの学習計画を立てては、にやりと笑う。
ミエルも、家の庭で、学院に持っていくための薬草の種を選別したり、新しい軟膏の試作をしたりと、とても楽しそうだった。
出発の一週間前。
工房に顔を出すと、父が、彼が長年使い込んできた革張りの手記を差し出してきた。
「これを持っていけ。俺の失敗の記録だ。お前は俺と違って、同じ轍は踏むなよ」
そのぶっきらぼうな言葉が、父なりの、最高のエールだった。
母は、真新しい外套を渡してくれる。
「一応、お守りの魔法はかけておいたからね。まあ、一番のお守りは隣にいるミエルだろうけど!」
「もう、ネリアおば様!」
母の軽口に、ミエルが顔を赤くする。
私たちの旅支度は、四人の親たちの、温かい愛情で、どんどん膨れ上がっていった。
そして、旅立ちの朝。
家の前には、四人の親たちが、勢揃いしていた。
その顔に、寂しさの色はない。ただ、どこまでも誇らしげな、優しい笑顔があるだけ。
「二人とも、ちゃんとご飯を食べるんだよ」
「無理はするんじゃないぞ」
「ミエル、リィアさんの言うことをよく聞くのよ」
「リィアちゃんも、うちのミエルのこと、頼んだよ」
私たちは、四人の顔をしっかりと胸に焼き付けると、くるりと背を向け、歩き出した。
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