骸の谷と冒険者(改稿版)
ピヨと出会ってから、私の迷宮探索は一変した。
第六、第七階層と、これまでの徒歩での探索が嘘のように、私たちは風に乗って進んでいく。眼下に広がる未知の景色を眺めながら、ピヨの背に揺られる時間は、何物にも代えがたいものだった。
「ピヨ、あそこに綺麗な花が咲いています。少しだけ、降りてもらえますか?」
「キェェ!」
私の頼みに、ピヨは心得たとばかりに翼を傾け、緩やかに降下していく。
こうして時折道草を食いながらも、私たちの旅は順調に進んだ。
第八階層を抜ける頃には、迷宮の雰囲気は再びその姿を変えていた。
植物の匂いが消え、代わりに乾いた土と、鉄が錆びたような匂いが混じるようになる。
そして、第九階層。
そこに広がっていたのは、見渡す限りの峡谷だ。
地面には、無数の錆びついた武具が墓標のように突き立ち、あちこちに朽ち果てた骸が転がっている。空は低く垂れ込めた灰色の霧に覆われ、光はどこにもない。
「……骸の谷、ですか」
ギルドの地図に記されていた名を、私は静かに呟いた。
ピヨも、この淀んだ空気が気に入らないのだろう。不安そうに、低い声で喉を鳴らしている。
「大丈夫ですよ、ピヨ。私がついていますから」
私がその首筋を撫でると、ピヨは少しだけ落ち着きを取り戻したようだった。
私たちは、この静かな死の谷へと、慎重に足を踏み入れる。
すると、地面に転がっていた骸たちが、ぎし、ぎし、と軋むような音を立てて起き上がり始めた。
空っぽの眼窩に、青白い鬼火が宿る。
アンデッド。生前の無念か、あるいは迷宮の魔力か。死してなお、この地に縛られた魂たちだ。
(物理攻撃は、おそらく効果が薄いですね)
一体のスケルトンが、錆びついた長剣を振りかぶり、こちらへ突進してくる。
動きは鈍く、生前の技量など欠片も残っていない。ただ、魔力に操られるだけの骸だ。
私はその斬撃を最小限の動きでいなすと、セレネを振るった。
シュン、と澄んだ音。
手応えは、ない。
セレネの黒い刃は、スケルトンの骨を、まるで霧を斬るかのように、何の抵抗もなく通り抜けた。
そして、斬られたスケルトンは、その場に崩れ落ちると、鬼火が消え、ただの骨の山に戻っていく。
(……やはり。月鋼は、魔力で構成された存在に対して、絶大な効果を発揮しますね)
父が言っていた、「どんな金属よりも純粋だ」という言葉の意味が、今、はっきりと理解できた。
「ピヨ、お願いできますか?」
「キェェ!」
私の言葉に、ピヨは翼を大きくはばたかせ、上空へと舞い上がる。
そして、その鋭い嘴から、小さな風の礫を、まるで機関銃のように吐き出した。
風の礫は、アンデッドの群れに次々と着弾し、その動きを鈍らせる。
私がその隙を突き、一体、また一体と骸を斬り伏せていく。
戦いは、もはや一方的な蹂躙に近かった。
そんな私たちの戦いを、少し離れた岩陰から、息を殺して見つめる一つの影があった。
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(……なんだ、あのエルフは……?)
私は、信じられないものを見るような目で、その光景を見つめていた。
この第九階層「骸の谷」でアンデッドの群れに足止めされて、もう半日以上。銀の長剣は亡霊にこそ有効だけれど、数が多すぎる。じりじりと魔力も体力も削られ、このままではジリ貧だと覚悟を決めかけていた、その矢先だった。
突如として現れた、一人のエルフと巨大なグリフォン。
最初、新たな魔物か、あるいは高ランクの冒険者パーティかと身構えた。
けれど、彼女の戦い方は、私が知るどんな冒険者のそれとも違っていた。
無駄がない。
黒い刀身の剣が閃くたび、一体、また一体とアンデッドが塵も残さず霧散していく。力でねじ伏せるのでも、派手な魔法で焼き払うのでもない。まるで、そこにあるべきではない「汚れ」を、静かに拭い去っていくかのような、あまりにも静かで、完璧な剣技。
「キェェ!」
上空からのグリフォンの援護も的確だった。
風の礫がアンデッドの陣形を乱し、エルフの女が動くための「道」を常に作り出している。
一人と一匹。それだけで、あれほど厄介だったアンデッドの群れが、まるで紙切れのように掃討されていく。
やがて、最後の一体が光の粒子となって消え、骸の谷に静寂が戻った。
残されたのは、夥しい数の錆びついた武具と、呆然と立ち尽くす私だけ。
黒い剣の刃を軽く振って血糊ならぬ魔力の残滓を払うと、彼女は私の方へとゆっくりと歩み寄ってきた。
「……怪我は、ありませんか」
その声に、私ははっと我に返り、警戒を解かずに銀の長剣を構え直す。
「助かったわ……あなたも冒険者? 」
「ええ。少し前に、ランパードに来たばかりです」
彼女がそう言って、胸のゴールドランクのプレートを示すと、私はさらに目を見開いた。
「ゴールド……? あなたが……?」
無理もない。目の前のエルフは、およそ高ランク冒険者らしい威圧感を放ってはいない。
彼女は、私の警戒を解くように、小さく肩をすくめてみせた。
「私はリィアといいます。ただの旅人ですよ」
「旅人……が、一人で第九階層に? そのグリフォンは?」
「彼は、私の友人です。……ピヨ、と言います」
「キェェ!」と、グリフォンが少しだけ誇らしげに胸を張る。
その、あまりにも緊張感のないやり取りに、私は毒気を抜かれたように、構えていた剣の切っ先を少しだけ下げた。
「……私は、エリス。見ての通り、ここで少し、手間取っていたわ」
私は、自分の周りに転がる数体のアンデッドの残骸を見て、唇を噛む。
「あなたのその剣……」
だが、私が何かを尋ねる前に、谷の空気が、再び変わった。
ゴゴゴゴゴ……。
地響き。それも、ただの揺れではない。
谷の奥、ひときわ高く積み上げられた骸の山が、内側から不気味な青白い光を放ちながら、ゆっくりと崩れ落ちていく。
「……まだ、何かいるのですか」
「ええ。……どうやらそうみたいね」
私は、銀の長剣を握り直し、その視線をまっすぐ谷の奥へと向けた。
骸の山の中から、一体の巨大な影が、ゆっくりと姿を現す。
馬にまたがった、黒い全身鎧の騎士。
その手には、禍々しいオーラを放つ、巨大な両刃の斧槍。
兜の奥で、二つの赤い光が、静かに私たちを捉えていた。




