草原での出会い(改稿版)
ある程度休息をとった私は第四階層へと降りていた。
中央に川が流れるような地形の洞窟だったが、特に魔物にも出会わず難なく踏破できた。
さらに第四階層を抜け、第五階層へと続く階段を降りると、空気がふわりと軽くなった。
ひんやりとした石の感触が消え、代わりに乾いた土と、どこか懐かしい草の匂いが鼻をつく。
眼前に広がっていたのは、広大な地下草原だった。
遥か頭上の天井は、それ自体が淡い光を放つ鉱石で覆われ、まるで空のようにどこまでも続いている。
遮るもののない空間を、常に風が吹き抜けており、背の高い草原がさわさわと音を立てて波打っていた。
「わぁ……」
思わず、声が漏れた。
私は外套のフードを外し、頬を撫でる風を心地よく感じた。
(綺麗ですね。こういう場所を、自分の目で見てみたかったんです)
これまでの階層とは違う、開放的な景色。
私の胸は、久しぶりに純粋な高揚感で満たされていた。
私はしばらくその場に立ち尽くし、ただ風に揺れる草原を眺めていた。
さて、と。
私は気を取り直し、草原に一本だけ続く、踏み固められた道を進み始めた。
時折、見たこともない種類の蝶が目の前を横切っていく。
その度に足を止め、スケッチブックにその姿を書き留めた。
ミエルへのお土産話が、また一つ増えていく。
日が傾き始め、天井の光が夕焼けのような色に変わり始めた頃、私は風を避けられる手頃な岩場を見つけ、野営の準備を始めた。
手際よく火を起こし、干し肉を炙っていると、少し離れた場所から、同じように冒険者たちがキャンプの準備をしているのが見えた。
四人組の、まだ若そうなパーティだ。
(……挨拶くらいは、しておくべきでしょうか)
私は少しだけ迷った後、立ち上がると、彼らの方へゆっくりと歩いていった。
私が近づいていくと、四人組のパーティはこちらに気づき、一瞬、警戒したように身構えた。
無理もない。迷宮で出会う者は、皆、敵である可能性がある。
「何か御用でしょうか」
パーティのリーダーらしき、剣士の青年が代表して声をかけてきた。
その声は若いが、まっすぐで、誠実な響きを持っていた。
「いえ、特に用事というわけではありません。同じ場所で野営するようですから、挨拶くらいはしておこうかと思いまして」
私は、敵意がないことを示すように、穏やかに返す。
私の言葉と、胸に下げたゴールドランクのプレートを見て、彼らの緊張が少しだけ解けたようだった。
「これは、ご丁寧にどうも。俺はケイン。こいつらは俺のパーティメンバーです」
「それにしても……あなたほどの高ランクの方が、こんな浅い階層にいるなんて珍しいですね」
ケインと名乗った青年は、そう言って不思議そうに首を傾げる。
彼の率直な疑問に、私は少しだけ照れたように笑って答えた。
「実を言うと、この迷宮に来るのは初めてなんです。見るものすべてが珍しくて、つい、のんびりしてしまいました」
「え、初めてなんですか!?」
私の意外な告白に、パーティの全員が驚きの声を上げた。
ケインは、すぐに人の良さそうな笑顔を見せる。
「ああ、それは分かります。俺たちも初めてここに来た時は、ダンジョンの中だってことを忘れて見入っちまいましたから」
その時、パーティの魔術師らしき少女が、おずおずと口を開く。
「あの……その剣、すごく……綺麗、ですね」
彼女の視線は、私の腰に下げたセレネに注がれていた。
黒い刀身に、龍の鱗を思わせる紋様。その異質さは、分かる者が見れば一目で伝わるのだろう。
「ええ。腕のいい職人に、特別に打ってもらったものです」
「すごい……。こんな不思議な金属、見たことがありません。まるで光を吸い込んでいるみたい……」
少女の瞳が、好奇心でキラキラと輝いている。
私は彼女に、悪戯っぽく笑いかけてみせた。
「少し、触ってみますか?」
「え、いいんですか!?」
少女は、恐る恐る、しかし嬉そうにセレネの柄に指先で触れる。
その純粋な反応に、私は昔のミエルを少しだけ思い出していた。
そんな時間も束の間、甲高い魔物の咆哮がキャンプの空気を切り裂いた。
ケインたちの表情が一瞬で険しくなる。
「……来たか!」
「この声、ゲイルハウンドだ! 数が多いぞ!」
ケインが叫ぶのと同時、草原の向こうから、風を切るようにして何頭もの魔獣の影がこちらへ向かってくるのが見えた。
狼に似ているが、よりしなやかで、その灰色の毛皮は風に溶け込むように色を変化させている。
「リィアさん、危ないから下がっててくれ!」
ケインが私を庇うように前に出る。
パーティの盾役と、もう一人の剣士も即座に彼の両脇を固めた。
魔術師の少女は、後方で詠唱を始めている。
その連携には、無駄がない。彼らが何度もこうした戦いを乗り越えてきたことが、一目で分かった。
(なるほど。良いパーティですね)
私は感心しながらも、セレネの柄にそっと手を添える。
ケインは、私がまだその場を動かないのを見て、少し焦ったように声を上げた。
「リィアさん! 俺たちが抑える! だからあんたは――」
「いえ、私も手伝いますよ」
私のあまりにも落ち着いた声に、ケインが一瞬、言葉を失う。
「……あなたも、と言うが……。相手は群れだぞ?」
「ええ。ですが、風に乗って走る獣というのは、初めて見ました。少し、興味がありますので」
私がそう言って微笑むと、ケインは呆気に取られたような顔をした後、やがて諦めたように短く笑った。
「……ははっ。あんた、やっぱ変わってるな。……分かった、でも無茶はしないでくれよ!」
「お互いに、ですね」
そう言い返した瞬間、ゲイルハウンドの群れが、ついに私たちの間合いにまで到達した。
先頭の一匹が、鋭い爪を振りかざし、ケインに襲いかかる。
キン、と甲高い金属音。
ケインがそれを長剣で弾き返し、草原での乱戦の火蓋が切って落とされた。
私は戦況を冷静に観察する。
ゲイルハウンドの動きは速い。
風に乗ることで、直線的な動きに幻惑するような緩急が加わっている。
「くそっ、ちょこまかと!」
私は、一体のゲイルハウンドが、パーティの死角である右側から回り込もうとしているのを見つけた。
狙いは、詠唱に集中している魔術師の少女だ。
私は地面を蹴った。
強化魔法で加速した身体は、一直線に少女と魔物の間に割り込む。
振り下ろされる爪を、セレネの鞘で弾き返す。
硬い感触。
ゲイルハウンドは、私がその攻撃を防いだことに驚いたように、一瞬だけ動きを止めた。
その隙を見逃さない。
私は体勢を低くすると、がら空きになった魔物の懐に潜り込み、セレネの柄頭を、その腹部にめり込ませた。
「グッ……!」という短い悲鳴を上げ、ゲイルハウンドがくの字に折れ曲がる。
私はそのまま、後方へ蹴り飛ばした。
「リィアさん!助かりました!」
魔術師の少女が、ほっとしたように息をつく。
私は彼女に、軽く片目を瞑ってみせた。
「どういたしまして。ですが、あまり長くは持ちません。早くしないと、次が来ますよ」
私の言葉に、彼女はこくりと頷くと、再び詠唱に集中する。
やがて、彼女の手から放たれた風の刃が、ゲイルハウンドの群れを次々と切り裂いていった。
戦いは、夜明け近くまで続いた。
朝日が昇る頃には、私たちの足元には、夥しい数のゲイルハウンドの亡骸が転がっていた。
「……はぁ……はぁ……。な、なんとかなったな……」
ケインが、剣を杖代わりにして、その場に座り込む。
彼のパーティメンバーも、誰もが疲労困憊だった。
私も、少しだけ息が上がっている。
「お見事でした、ケインさん。良い連携でしたね」
「リィアさんがいてくれて助かったよ…」
助かった、といわれてしまったが、彼らも十分動いていた。
それに、ほかの冒険者との連携というのも初めてだ。
学ぶことはまだまだ多い。
「ありがとうございます。ですが、みんなで力を合わせた結果、ですよ?」
私がそう言うとケインさんたちは口元を綻ばせながら、グッと、拳を差し出してくれた。




