菌類の森と静寂の泉(改稿版)
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第一階層を抜け、第二階層へ続く階段を降りると、空気が変わった。
肌にまとわりつく湿り気、ほんのり甘い腐葉土の匂い――まるで地上から遠く離れた別世界に足を踏み入れたかのようだ。
眼前に広がるのは「菌類の森」。
天井まで届く巨大なキノコが林のように立ち並び、青や紫、緑など様々な色の燐光を放っていた。
その光は幻想的で美しいが、同時に、得体の知れぬ不気味さを帯びている。
(第二階層。ギルドの地図に特別な注意書きはありませんでしたが、これは……)
足元で、ふわりとキノコの傘が弾けた。
舞い上がった無数の光の粒――美しい胞子が空気に溶ける。
私は息を止め、モノクル越しにその性質を探った。
(微弱な幻覚作用と、方向感覚を奪う魔力ですか。厄介ですね)
長時間吸い込み続ければ、ゆっくりと精神を侵され、やがて迷子になる――そんな代物だ。
少し離れた通路では、案の定、冒険者のパーティが言い争っていた。
「だからこっちだって言ってるだろ!」
「何言ってんだ、さっきから同じ場所を回ってるじゃないか!」
既に森の術中に嵌まっている。
この階層の脅威はモンスターではなく、環境そのものらしい。
私はポーチから、薬師セトにもらった薬草包みを取り出す。
中から銀霧草を数本抜き、布で即席のフィルターマスクを作って口元を覆った。
清涼な香りが胞子を中和し、呼吸が楽になる。
これで、森の最大の罠は無効化できた。
他の冒険者たちが右往左往する中、私は静かに歩を進めた。
モノクル越しに胞子の流れを追っていると、やがて森の奥へ続く「ある法則」に気づく。
岩陰や巨大キノコの根元に、時折淡く銀色に光る苔――月光ゴケが生えている。
(幻覚胞子が届かない、空気の清浄な場所。なるほど、面白い生態系です)
それは、この階層が生み出した天然の安全ルートだった。
私は発見した「光の道標」を辿り、菌類の森を迷いなく進んでいった。
淡く輝く月光ゴケが、まるで道案内でもするかのように足元で瞬く。
途中、幻覚に翻弄され疲弊した冒険者たちと何度もすれ違った。
私のフィルターマスクと迷いのない足取りを、彼らはまるで幻影でも見るような表情で見送る。
やがて、月光ゴケの並びは一つの巨大な洞窟の入口へと続いた。
第三階層への階段だ。
階段を降りる前、私は森を振り返る。
遠くに、先ほど見かけた駆け出しパーティが、まだ幻覚に翻弄されているのが見えた。
少しだけ考え、近くにあったチョーク質の白い石を拾う。
彼らが通りかかりそうな分岐点に、月光ゴケの簡単なスケッチと、矢印を描き残した。
(この迷宮は、観察する者にだけ道を示す。それに気づけるかどうかは、あなた方次第ですよ)
私は背を向け、第三階層へと足を踏み入れる。
そこは、第二階層の有機的な森とは打って変わり、無機質な石造りの遺跡のような空間だった。
高い天井と、幾何学的な石壁。
湿った森の匂いは消え、代わりにひんやりと乾いた空気が漂う。
ギルドの地図によれば、この階層は一本道で、中腹に第四階層への階段があるという。
最奥は行き止まり――そう記されていた。
だが、その「行き止まり」という言葉が、どうにも気にかかる。
私は地図に従って進み、そして最奥とされる壁の前に立った。
一見、ただの岩壁だ。
しかし、モノクルで視た瞬間、違和感が走る。
(不自然ですね。マナの流れが、ここで完全に堰き止められている)
これは自然の壁ではない。
壁に手を触れ、魔力を流して内部構造を探る。
岩盤のさらに奥、ごく僅かな空洞の気配。
(隠し通路……ですか。遊び心がありますね、この迷宮の設計者は)
私は壁を丹念に調べ始めた。
注意深く観察すると、壁の隅、床との接合部近くに、びっしりと分厚い蔦が垂れ下がっている場所を見つけた。
他の場所の壁は乾いているのに、その蔦だけが妙に瑞々しい。
蔦をセレネで切り払うと、その奥に人が一人、やっと通れるほどの細い亀裂が隠されていた。
中からは、ひやりとした清浄な空気が流れ出してくる。
「当たり、ですね」
亀裂に身体を滑り込ませると、中は緩やかな下り坂になっていた。
数分ほど進んだだろうか。
やがて、水の音が聞こえ始め、通路が開けた場所に出た。
そこは、小さな鍾乳洞だった。
天井から染み出した水滴が、長い年月をかけて作り出した石筍が、まるでオブジェのように林立している。
そして、その中央。
岩の裂け目から、絶え間なく清らかな水が湧き出し、小さな泉を作っていた。
「湧水ですか。こんな場所に……」
ここは、モンスターの気配も、幻惑の胞子の影響もない安全地帯のようだった。
私は水筒の水を入れ替え、新鮮な水で喉を潤す。
冷たく澄んだ水が、身体の芯まで染み渡っていく。
「少し、休憩していきましょうか」
私は泉のほとりに腰を下ろし、この静かな発見の余韻に、しばし身を浸すのだった。




