ダンジョンダイブ
しばらく迷宮編となります!
迷宮都市ランパード。
その中心――いや、この街の存在理由そのものであるかのように、大地には巨大な裂け目が口を開けていた。
それが《大迷宮》。
溢れ出す膨大なマナの奔流は、街全体の空気を常に微かに震わせ、肌を刺すような緊張感を纏わせている。
入り口は渓谷の底へと続く、広々とした石畳の広場。
そこには、これから深淵に挑もうとする者たちの熱気と、地上へ戻ってきた者たちの安堵と興奮が渦巻いていた。
叫び声、笑い声、武具がぶつかり合う金属音――どれもがこの街の日常だ。
私はその人の波に身を任せ、迷宮の門をくぐる。
第一階層に足を踏み入れた瞬間、天井まで届く光ゴケが放つ青白い輝きが視界を満たした。
空気は冷たく、どこか懐かしい古代の匂いを孕んでいる。遠くから響く低い反響音が、迷宮という巨大な器の呼吸を感じさせた。
(……まずは、この世界の理を知るところから、ですね)
戦闘を急ぐ冒険者たちとは違う、私だけの旅。
目的は攻略ではなく、観察と理解――一人の研究者として、この迷宮の構造と法則を見極めること。
そんな私の足を、思わぬ光景が止めた。
少し開けた広間で、三人組のパーティが一体の魔物と格闘していた。
胸のプレートはストーン。どう見ても駆け出しだ。
相手は「ロッククラブ」と呼ばれるカニ型の魔物。
硬い甲殻は剣を弾き、火球すらも軽くいなす。
「くそっ、硬すぎだろこいつ!」
「魔力が……もうもたないよ!」
彼らは正面からの力押しに固執し、じわじわと追い詰められていく。
私は足を止めず、その脇を通り過ぎながら、声を落として一言だけ置いた。
「……脚の付け根。熱を逃がす器官を冷やせば、動きは鈍りますよ」
一瞬、剣を構えた少年がこちらを振り返る。
だが私の姿は、すでに通路の奥へと消えていく。
「……今の、聞いた?」
「エルフの人……かな。ヒントをくれたのかも」
「やってみるしかないでしょ!」
少女の小さな氷の矢が、ロッククラブの脚の付け根に突き刺さる。
ジュッと蒸気が立ち、魔物の動きが明らかに鈍る。
「今だ!」
少年の渾身の一撃が、脚と胴の隙間を断ち割り、硬い甲殻が砕け散った。
ロッククラブは甲高い悲鳴を上げ、光の粒子となって消滅する。
「……すげえ、本当に……」
「あの人……何者なんだ……?」
三人の視線が、私が去っていった闇の奥を追っていた。
駆け出しパーティとすれ違った後も、私は第一階層を淡々と歩き続けた。
竜眼のモノクルを通すと、迷宮内部のマナの流れは驚くほど整然としており、まるで精密に組まれた機械仕掛けの歯車のように循環しているのが見える。
(……ただの魔物の巣、というわけではなさそうですね)
むしろ、この巨大な空間そのものが、一つの生命体として脈動している――そんな錯覚すら覚える。
さらに進むと、通路の先が不自然に開けた場所に出た。
そこで私の足は止まった。
幅十メートルほどの「川」が、行く手を阻んでいたからだ。
ただし、それは水ではない。濃い緑色の粘性を持つ液体――酸のスライムが、川となって流れている。
触れれば皮膚も金属も瞬く間に溶かす、危険極まりない物質だ。
川岸には、十数人の冒険者たちが座り込み、諦めのため息をついていた。
いくつかのパーティが混ざり、いまや半ば野営地のような雰囲気を醸し出している。
「くそっ、この先行かねえと依頼の薬草が手に入らねえってのに!」
「昨日も無理やり渡ろうとした奴が、ブーツ溶かされて泣いてたぞ……」
中心に陣取っているのは、岩のように屈強な体格のドワーフの男だった。
腕を組み、険しい顔でスライムの川を睨みつけている。
その場に足を踏み入れた私に、冒険者たちの視線が集まる。
胸のゴールドランクのプレートに気づいた瞬間、ざわめきが走った。
その中には、先ほどの駆け出し三人組の姿もあった。
彼らは私を見るなり「あ、あの時の!」と小さく声を上げる。
やがてドワーフの男が、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。
目つきは鋭く、声は低く響く。
「ゴールドランクのお嬢さん。……何か妙案はないか? 見ての通り、俺たちはここで足止めを食ってる。あんたほどの腕なら、派手な魔法で吹き飛ばすことぐらい、できるんじゃないのか?」
周囲の冒険者たちも、期待と好奇の入り混じった目で私を見つめる。
だが、力任せに解決するのは、最も愚かな選択だ。
竜眼を通して観察すると、スライムの魔力は非常に不安定で、ある条件さえ揃えば一気に崩壊する構造をしている。
そして――上流の岩壁に、その条件を満たすものがあった。
私はそちらを指差す。
「あそこに、答えがあります」
視線の先には、青みがかった鉱石が地層のように剥き出しになった岩壁。
「ただの岩だろ?」
誰かが呟く。
私は淡々と告げた。
「あれはアルカリ性を持つ『月長石』の鉱脈です。この川に投げ込めば、中和反応で無力化できます」
予想外すぎる提案に、場の空気が凍りつく。
「……嬢ちゃん、それは本当か?」
ドワーフの男が目を細める。
その問いに、別の声が割って入った。
「本当です! この人の言う通りにしたら、俺たち助かったんだ!」
声の主は、あの駆け出し三人組のリーダーだった。
彼は必死な面持ちで周囲を見回す。
「ロッククラブに全く歯が立たなかった俺たちに、一瞬で弱点を教えてくれたんです! 信じる価値はあります!」
その言葉が、場に流れていた疑念をわずかに溶かした。
ドワーフの男――ドルガンは、私の目をじっと見つめ、やがてにやりと笑う。
「……いいだろう。面白ぇ! 野郎ども、聞いたな! あの青い石を削って持ってこい! 文句ある奴は、わしの斧が黙らせる!」
その一声で、冒険者たちが一斉に動き出す。
つるはしで岩を砕き、手頃な大きさに割った月長石を抱えて川岸へ運ぶ。
最初の一塊が、酸の川へと投げ込まれた。
ジュワッ――! 白い煙が上がり、緑色だったスライムが瞬く間に色を失い、半透明のゲル状へと変化する。
「おお……効いてるぞ!」
「すげえ、本当に道ができていく!」
興奮の声が飛び交い、次々と石が投げ込まれていく。
酸の川は見る見るうちに濁流から静かな橋へと姿を変え、やがて対岸まで安全な道が繋がった。
冒険者たちは互いに肩を叩き合い、笑い声を上げる。
それは誰か一人の力ではなく、全員が協力して勝ち取った成果だった。
私はその喧騒を背に、静かに対岸へ渡る。
「待ってくれ、嬢ちゃん! ……いや、リィア殿!」
振り返ると、ドルガンが駆け寄ってきていた。
厳つい顔を引き締め、深々と頭を下げる。
「恩に着るぜ。わしは岩髭団のドルガン。この恩は必ず返す。困った時は必ず声をかけろ」
駆け出し三人組も駆け寄り、同じように頭を下げた。
私はただ静かに頷き、歩みを再開する。
背後から聞こえる賑やかな声が、心地よく耳に残った。
一人で歩いているが、もう完全な独りではない――
そんな確かな感覚と共に、私は迷宮のさらに奥へと進んでいった。




