旅人の置き土産
「――それにしても、シルヴァンさんの工房はすごいね。クッキーを焼くだけなのに、熱の循環効率がどうとか、この天板の厚みがどうとか……。私の故郷の菓子職人より、ずっとこだわりが強いんじゃないかい?」
「最高の道具があってこそ、最高の味が生まれるんです。父の作ったこの天板だからこそ、この完璧な焼き色が実現できるんですよ」
月光蝶を見に行った日の昼下がり。
私は、エレーナさんとミエルと一緒に、台所でクッキーを焼いていた。
滞在が長くなるにつれてすっかり打ち解けたエレーナさんは、時々こうして私の父をからかって遊ぶのが趣味になっているらしい。父も父で、まんざらでもない顔をしているのが面白い。
「へぇ。じゃあ、そのこだわりの道具とやらで作ったクッキーは、さぞ美味しいんでしょうねぇ」
「もちろんです。なんせ、私が配合した特製の生地ですから」
オーブンから取り出したクッキーは、完璧なきつね色に焼き上がっていた。
サクサクの食感と、ほんのり香る木の実の風味。うん、我ながら上出来だ。
ミエルも「おいしい!」と頬張り、エレーナさんも「……これは、まあ、認めてやらないこともない」と、素直じゃない感想を漏らしている。
穏やかで、満ち足りた、宝石のような日々。
でも、私は知っていた。こういう時間には、必ず終わりが来るということを。
夕食の後、エレーナさんが、いつになく真剣な顔で私たちに向き直った。
「リィア、ミエル。二人とも、少し話があるんだ」
ああ、やっぱり。
その顔を見て、私は全てを察した。
「私の、この森での調査が、もうすぐ終わる。そろそろ、次の目的地へ、旅立とうと思うんだ」
その言葉に、ミエルの肩がぴくりと震える。
分かっていたことだった。彼女は旅人で、いつかはこの森を去っていく。
頭では理解していても、心が追いつかない。
「……そうですか」
「もう……行っちゃうんですか?」
寂しさを隠せない私たちの声に、エレーナさんは、困ったように、しかし優しく微笑んだ。
「ああ。だが、別れじゃないさ。きっと、また会える」
その言葉は、まるで約束のように、温かく響いた。
旅立ちの日の朝は、驚くほど穏やかにやってきた。
家の前には、私たち家族と、ミエルが集まって、エレーナさんを見送る。
「シルヴァンさん、ネリアさん。本当にお世話になりました。このご恩は、決して忘れません」
セレナさんは、私の両親に深く頭を下げた。
「いや、礼を言うのはこちらの方だ。娘に、我々だけでは見せてやれない世界を、見せてくれた」
父は、相変わらずぶっきらぼうだったが、その声には確かな感謝が滲んでいる。
「どうか、お気をつけて。あなたの旅路が、いつも光で満ちていますように」
母は、涙ぐみながらエレーナさんの手を握った。
そして、エレーナさんは私たちの前に向き直る。
ミエルが、おずおずと一歩前に出た。その手には、銀葉草で編んだ小さなお守りが握られている。
「エレーナさん、これ……。旅の安全を願って、作りました」
「ありがとう、ミエル。君なら、きっと素晴らしい薬師になれる。君の優しさは、どんな薬よりも人の心を癒す力があるからね」
エレーナさんのその言葉に、ミエルの瞳が潤む。
最後に、彼女は私の前に立った。
その知的な瞳が、まっすぐに私を見つめている。
「リィア、君は私の想像を超えていたよ。君のその頭の中には、エルフの知恵と、まるで別の世界の知恵が、不思議な形で同居している。……その力を、迷わず磨きなさい」
彼女はそう言うと、旅の荷物の中から、二つのものを私に手渡した。
一つは、あの時見せてくれた、古びた羊皮紙の世界地図。
そしてもう一つは、小さな羅針盤だった。
「これはお守りみたいなものさ。普通の旅人には北を指すが、本当に道に迷った時は、持ち主が『一番会いたい人』のいる方角を、ぼんやりと教えてくれる。……気まぐれな道具だけどね」
私は、その二つをぎゅっと握りしめた。
地図と、羅針盤。それは、旅人が持つべき、最初の装備。
「君が、いつか本当の旅に出る時が来たら、これを持っていくといい。もしかしたら、その針が、また私の方角を指してくれるかもしれない」
エレーナさんはそう言うと、悪戯っぽく片目を瞑った。
「世界は広いよ、リィア。答えを急ぐな。色んなものを見て、色んなことを感じて、君だけの『答え』を見つけなさい」
彼女は、私とミエルの頭を一度ずつ優しく撫でると、くるりと背を向けた。
そして、一度も振り返ることなく、森の奥へと続く光の中へと歩いていく。
その背中は、少しだけ寂しそうで、けれど、どこまでも自由に見えた。
私たちは、彼女の姿が完全に見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。
「……行っちゃったね、リィア」
「ええ……」
手の中にある羅針盤の蓋を、そっと開けてみる。
中の針はまだ、当てもなくくるくると回っているだけだった。
(まだ、私の『会いたい人』は定まっていない、ということですね。ええ、それでいい。まずは、力をつけなければ。世界を歩くための、最初の力を)
私は羅針盤をそっと懐にしまうと、隣に立つ親友の顔を見た。
ミエルの瞳にも、私と同じ決意の光が宿っている。
「ミエル」
「……うん」
「私も、決めました」
私のその言葉に、ミエルは、全てを察したように、力強く頷き返した。