村の夜明けと宴
絶叫が夜の闇に吸い込まれていった。
森の主――あの巨大な黒狼は、すべての元凶をその顎にくわえると、一度だけ、静かな敬意をたたえた瞳で私を見つめた。
その視線は、言葉よりも雄弁で――「よくやった」と告げているようにも感じられた。
そして音もなく、森の奥へとその姿を消していく。
広場に残されたのは、呆然と立ち尽くす村人たちと、解放された娘、そして私とエマだけだった。
長く、重く、村人たちの心を縛りつけていた恐怖の色が、その顔からすぅっと薄れていくのがわかる。
「……ああ……わしらは……今まで、何を……」
一人の老人が、その場にへたり込んだ。
その姿をきっかけに、張りつめていた堰が切れたように、村人たちの嗚咽が広場に響き渡る。
泣きながら抱き合う者、空を仰いで肩を震わせる者――その声は夜気に溶け、ゆっくりと村を包み込んでいった。
私が助け出した娘は、家族と固く抱き合い、涙で顔をくしゃくしゃにしていた。
背を向け、宿屋へと戻ろうとしたとき、背後から声がかかる。
「……あ、あの! お待ちくださいまし!」
振り返れば、深い皺を刻んだ村の老婆が、私の前に進み出てきて、その手をぎゅっと握りしめる。
「冒険者様……本当に、何とお礼を申し上げれば……」
「私はただの通りすがりです。お気になさらず」
「そういうわけにはまいりません!」
老婆は、私の素っ気ない言葉にも食い下がる。
「あなた様は、この村を救ってくださったのです。どうか……夜が明けるまで、ここにお泊まりくださいませ。せめて、心ばかりのお礼をさせてください」
「……わかりました。朝までお世話になります」
「まあ……! ありがとうございます」
老婆は深々と頭を下げた。
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一夜が明けた村の空気は、昨日までとは打って変わって明るく、温かかった。
村人たちは、まるで鎖が外れたように、互いに笑い合い、声を掛け合っている。
エマはすっかり村の子供たちと打ち解け、広場で鬼ごっこに興じていた。
私は宿屋のポーチで、その平和な光景をただ静かに眺めていた。
――その時だった。
村の入り口の方から、ざわめきが広がる。
村人たちが怯えたように森を指さしている。
私も視線を向けた。
深い茂みの向こうから、一体の巨大な影が姿を現した。
昨夜の、あの黒狼――森の主だ。
しかし、その気配には怒りは微塵もなく、穏やかで落ち着いている。
村人たちは悲鳴を上げ、慌てて道の脇へと退く。だが狼は、私だけを真っすぐに見据え、ゆっくりと歩み寄ってきた。
やがて、目の前でその巨体が止まる。
知性の光を宿した瞳が、じっと私を見つめる。
私はセレネの柄に手をかけたまま、視線を逸らさなかった。
黒狼は、ゆっくりと口を開いた。
牙の間に、一瞬きらりと翠色の光がのぞく。
私は反射的に身構えたが、それは攻撃ではなかった。
――ことり。
足元に置かれたのは、森の若葉をそのまま宝石に閉じ込めたような、瑞々しい緑の宝玉だった。
内側から温かな生命の光が、かすかに脈打つように溢れ出している。
「……これは……」
拾い上げた瞬間、宝玉から流れ込む生命力が、手のひらから全身へと染み渡っていくのを感じた。
まるで春の陽だまりに身を置くような――心まで解きほぐされるような感覚。
父の書斎で、一度だけ見たことがある古い伝承が脳裏をよぎる。
『森がその恩人に稀に与えるという生命の結晶。手にするだけで傷は癒え、魔力は回復する』
本にはそう記されていた。まさか、本物に出会えるなんて。
狼は、私の手の中の宝玉を確かめるように見つめ、一度だけ静かに頷いた。
――感謝。
声なき思いが、確かに伝わってきた。
それから踵を返し、音もなく森の奥へ消えていく。
その後の村は、まるで祭りのような騒ぎになった。
恐怖から解き放たれた人々は、涙と笑顔を交互に浮かべ、互いに抱き合い、そして私とエマをまるで英雄のようにもてなしてくれた。
その夜、広場には大きな焚き火が焚かれ、村をあげての宴が始まった。
長い板を並べた簡素なテーブルの上には、狩ってきたばかりの猪の丸焼き、山菜の煮込み、果実酒……素朴だが、どれも心のこもったご馳走ばかりだ。
「リィア様! この猪、絶品ですよ!」
「いやいや、この酒だって負けませんぞ! 今年一番の出来でして!」
あちこちから差し出される皿と杯。
私は少しだけ戸惑いながらも、一つひとつ礼を述べて受け取った。
その様子を見て、エマはくすりと笑う。
「ふふ、リィア様、なんだか困ってます?」
「……少しだけ、ですね。これほど歓迎されるのは久しぶりですから」
一方のエマは、すっかり村の子供たちの人気者になっていた。
彼女が籠から月光蝶を放つと、子供たちは歓声を上げ、手を伸ばしてその淡い光を追いかける。
「わぁ……!」
その光景に、私の口元も自然と緩んだ。
やがて楽団が陽気な旋律を奏で始め、村人たちは手を取り合って輪になり踊り始める。
エマが、私の外套の裾をくいと引っぱった。
「リィア様も一緒に!」
「私は……踊りは……」
言葉を濁す私に、エマは満面の笑顔で言う。
「だいじょうぶです、楽しいですよ!」
――ああ、もう。
根負けした私は、恐る恐る輪に加わる。
すると一斉に大きな歓声が上がり、手を引かれて次々とステップを踏まされる。
炎の温もりと笑い声、足元を照らす月光蝶の淡い光。
その輪の中で、私は久しぶりに、心から笑っていた。
翌朝。
村を出発しようと広場に向かうと、そこには村人全員が並んでいた。
その列の中から、昨夜助けた娘が駆け寄ってくる。
「あの……!」
息を弾ませ、両手で大事そうに抱えていた小さな花冠を差し出した。
「これ……昨日、村のみんなで作ったんです。リィア様に……」
淡い朝日を浴びた花々が、朝露で輝いている。
私はしばし見つめ、そっと受け取った。
「……ありがとう。大切にします」
娘は照れたように笑い、家族のもとへ駆け戻っていった。
「リィアさん、エマちゃん! これも持ってってくれ!」
「道中で腹が減るだろう!」
焼きたてのパン、干し肉、瑞々しい果物――村人たちが次々と手に持たせてくれる。
私たちの鞄はあっという間に、温かな善意でいっぱいになった。
老婆が、涙を浮かべて私の手をぎゅっと握る。
「あなた方はこの村の救い主です。このご恩、決して忘れません。いつかまた、必ずお立ち寄りください」
隣を見ると、エマも目を潤ませていた。
昨夜一緒に遊んだ子供たちが、泣きながら手を振っている。
「……みんな、元気でね!」
エマは声を張り上げ、精一杯手を振り返した。
私は深く頭を下げ、エマの手を取る。
「……行きましょう、エマさん」
「……はい」
再びランパードへ続く森の道を進む。
けれど、そこにはもう昨夜までの不気味さはなかった。
木々の間から降り注ぐ木漏れ日がきらきらと揺れ、鳥たちが楽しげにさえずっている。
エマが、小さな声で言った。
「森……なんだか、笑ってるみたいです」
「ええ。きっと、あの黒狼が見守ってくれているのでしょう」
私は掌に忍ばせた翠玉の温もりを感じながら、静かに頷いた。
――あの森の主が、私たちを祝福してくれている。
そんな確信が、不思議と胸の奥にあった。




