月光蝶と、旅人の提案
エレーナさんが私たちの家に滞在するようになってから、数週間が過ぎた。
彼女はすっかり私たちの生活に溶け込み、特に私とミエルにとっては、年の離れた、物知りで素敵な「お姉さん」のような存在になっていた。
穏やかな昼下がり、私たちは三人で薬草園の手入れをしていた。
「ねえ、二人とも。ちょっと面白いもの、見に行かない?」
エレーナさんが、楽しそうにそう言って、私とミエルに手招きをした。
「面白いもの、ですか?」
「ええ。私の研究対象でもあるんだけどね、『月光蝶』っていう、とても綺麗な蝶がいるんだ。この森の奥でしか見られないらしくてさ」
(月光蝶……父の書斎の希少生物図鑑で見たことがある。成虫は、魔力を帯びた光の粉を振りまくとか。……うん、これは行ってみる価値がありそうだ)
「はい! 行ってみたいです!」
ミエルが、ぱっと顔を輝かせて答える。
「決まりだね。じゃあ、明日の朝、出発しようか」
エレーナさんはそう言って、悪戯っぽく笑った。
次の日の午後、私たちは三人で森の奥深くへと向かっていた。
ミエルは、まるで自分の庭を歩くように、慣れた足取りで私たちを導いていく。
「ここです、エレーナさん! 月光蝶は、この『月見草』の蜜しか吸わないんです。だから、この近くに絶対にいるはず……」
彼女の言う通り、目の前には月見草が群生する、美しい広場が広がっていた。
だが、そこに蝶の姿は一匹も見当たらない。
ミエルは「おかしいな……」と首をかしげ、エレーナさんも腕を組んで考え込んでいる。
(ミエルの言うことは正しい。条件は揃っている。なのに、蝶がいない。……だとしたら、原因は一つ。……私たち、か)
私は、自分の立てた仮説を、二人に静かに伝えた。
「もしかしたら、私たち自身の魔力が、蝶を怖がらせているのかもしれません」
「なるほど。面白い仮説だね」
エレーナさんが、感心したように頷く。
「確かに、高位の魔力を持つ種族の気配は、敏感な生き物にとっては脅威になりうる。だが、どうやってその気配を消すんだい?」
「ええと……」
私は少しだけ考え、一つの方法を試してみることにした。
「少し、待っていてください」
私はそう言うと、近くの沢から少しだけ湿った粘土を、そして魔力を持たない普通の木の幹から、粘り気のある樹液を採取した。
それを手早く乳鉢で混ぜ合わせると、匂いも魔力も持たない、灰色のペーストが出来上がった。
「これを、少しだけ肌に塗ってみてください。私たちの魔力の匂いを、一時的に中和してくれるはずです」
私の突飛な行動に、ミエルもエレーナさんも、最初は呆気に取られていた。
だが、エレーナさんはすぐに私の意図を理解したのだろう。その目に、強い好奇心の光を宿らせて、面白そうに笑った。
「ははっ、なるほどね。君は、本当に面白いことを考えるな」
私たちが、その灰色のペーストを肌に塗って、息を潜めてから、数分後。
奇跡は、静かに起こった。
警戒する魔力の匂いが消えたことに気づいたのだろう。
それまで身を隠していた木の葉の裏や、幹の影から、一匹、また一匹と、銀色の蝶が姿を現し始めたのだ。
やがて、その数は何十、何百にもなり、広場全体が、銀色の光の粉をまき散らしながら舞う蝶で埋め尽くされる。
それは、あまりにも幻想的で、息を呑むほど美しい光景だった。
「……すごい……」
ミエルが、うっとりとした声で呟く。
エレーナさんは、その光景ではなく、私の顔をじっと見ていた。
そして、心の底から楽しそうに、声を上げて笑った。
「ははっ、すごい! まさかこんな方法があったなんて! リィア、君、本当に面白い子だね!」
その、あまりにもストレートな賞賛の言葉。
私は、少しだけ照れくさそうに、はにかんだ。
「本に書いてあったことと、森にあるものを組み合わせただけですよ。運が良かったんだと思います」
その日の帰り道、エレーナさんは、私に静かに言った。
「……ねえ、リィア。君、学院に行ってみなよ」
「え……?」
「君みたいな子が、こんな森の中だけで勉強してるのは勿体ない。もっと広い場所で、色んな知識を学んだら、君はとんでもないことになるよ。きっと、私なんかすぐに追い越しちまうだろうね」




