荊の呪いを解く者
夜の帳がヴェリスの街を覆い、路地の灯が小さく揺れている。
二つの月が冴えた光を落とし、貴族街は昼間とは別人のように沈黙していた。
装飾の凝った屋敷並みも、今は黒と銀の影の中に溶け、やけに息苦しいほど静かだ。
アルバレス邸の門前に立つと、門番が無言で門を開けた。
通される瞬間、彼の視線が一瞬だけ私を射抜く。
――失敗すれば許さない。そんな無言の圧力だ。
玄関ホールにはレオン、ミーシャ、そして昼間よりさらに疲れ切った顔のアルバレス卿がいた。
誰も口を開かない。
その空気が妙に心地悪くて、私は先に沈黙を破った。
「お待たせしました」
レオンが小さく息を吐き、歩み寄る。
「本当に一人で大丈夫なのか?」
「大丈夫じゃなかったら来ませんよ」
肩を軽く竦め、口元だけで笑う。
その言葉にアルバレス卿がわずかに顔を上げる。
「……本当に、娘を助けられるのか?」
「助けられなかったら、黙って帰ります」
視線を正面から合わせ、静かに告げる。
「でも、そうはなりません。――ええ、約束します」
卿の瞳が一瞬だけ揺れた。
そのまま私たちは二階の部屋へ向かう。
部屋は昼間と同じ。可愛らしい調度品、天蓋付きのベッド。
ただ、空気は少し冷えている気がした。
少女は眠り、枕元のオルゴールが月明かりを反射して鈍く光っている。
レオンが近づこうとするのを、私は手で制した。
「ここからは私の領域です。……何があっても触れないで。外にも出ないでくださいね」
三人は無言で頷く。
私は部屋の中央に立ち、深く息を吸った。
「では、始めます」
瞼を閉じ、意識を深く沈める。
視界が一変し、部屋のマナの流れ、少女の淡い生命力、そしてオルゴールから伸びて魂に絡みつく黒い根が、はっきりと浮かび上がる。
(……見つけました)
目を開き、指先から白と金の光糸を放つ。
糸は宙を走り、少女とオルゴールを中心に円を描きながら空間を編み込む。
レオンが低く呟く。
「……結界か?」
「はい。即席の手術室です」
淡々と答えながらも、口元にわずかに笑みを乗せる。
「患者の周囲は清潔に――でしょう?」
糸が完成し、半透明の光のドームが部屋を覆った。
その内側は、私だけの作業場だ。
――ここからが本番。
私は結界の中心で、両手を胸の前にかざした。
指先に集まった光が形を変え、一本の鋭い白金のメスとなる。
もう片方の手には、細やかな操作のための光のピンセット。
少女の魂に食い込み、根を張る黒い呪詛。
その構造が嫌になるほど鮮明に見えてくる。
(これは……趣味が悪いですね)
(魂の一番柔らかいところを、わざと狙っている)
メスの刃を、癒着した境界線へとそっと滑らせた。
――その瞬間。
頭の奥に、金属を引っ掻くような悲鳴が響く。
呪いが私に気づいたのだ。黒い根が激しく脈動し、全力で抵抗を始める。
切断面から黒い魔力が奔流となって溢れ出す。
それは光の刃を伝い、逆流して私に食らいつこうとしていた。
白金の刃の先がじわじわと黒く染まり始める。
このままでは私の腕を伝って魂まで汚染される――それも一瞬で。
私は意識を二つに分けた。
右手は切開作業を続ける外科医として。
左手は全身の魔力を総動員し、逆流する呪詛を浄化する防御壁として。
一本、また一本と根を切る。
だが切っても切っても、別の根がまた新たに牙を剥く。
(埒が明かない……本体を叩くしかないですね)
視線を、全ての源――オルゴールへと向ける。
胸の前でメスとピンセットを重ね合わせ、一本の白金の槍へと融合させた。
「診断結果。根治には“外科的処置”より、臓器そのものの摘出が必要です」
冷たい宣告と共に、槍をオルゴールの中心へと突き立てた。
――脈動。
まるで心臓を握り潰されたかのように、呪詛が最後の絶叫をあげる。
黒い泥が溢れ、結界を叩き割ろうとする。
全魔力を槍に注ぎ込む。
白金と漆黒が衝突し、室内の空気が軋むように震えた。
やがて――パリン、と。
小さな破裂音と共に、呪いの核が砕け散る。
黒い泥は霧散し、光の結界も役目を終えて消えた。
「……終わり、です」
力を使い果たした身体が、前に傾ぐ。
その瞬間、誰かの腕が私を支えた。
――レオンだ。
「……あとは、任せます……」
視界の端で、少女の指がかすかに動いた。
重く沈む意識の中、私はかろうじて視線だけをベッドへ向けた。
まだ眠っているように見える少女。
だが――指先が、ほんのわずかにぴくりと動いた。
(……間に合いましたね)
安堵が胸に広がると同時に、完全に力が抜けた。
私はそのまま深い闇に沈み……ただ、その闇は不思議と温かかった。
「……ん……」
小さな吐息が室内に響いた。
レオンが腕の中の私を見下ろすより先に、少女の瞼がゆっくりと持ち上がる。
ぼんやりとした青い瞳が、焦点を探すように瞬きを繰り返した。
やがて――ベッド脇に座り込んでいた父の姿を見つける。
「……お父様……?」
その細い囁きは、アルバレス卿にとって何よりも尊い音楽だった。
「エレオノーラ……!」
名を叫び、小さな手を両手で包み込む。
涙が途切れることなく流れ落ち、無骨な指を濡らしていく。
「……ああ……戻ってきてくれたのだな……!」
嗚咽混じりの声に、ミーシャが目頭を押さえた。
屈強な盾役の男も、そっと視線を逸らしている。
レオンは私を抱え直し、少女の安否を確認する父の背中に静かに声をかけた。
「アルバレス卿。お嬢様はもう大丈夫でしょう。……ですが今は安静が必要です。彼女のことはギルドにも報告します。リィア……いえ、この者の功績も含めて」
父は涙に濡れた顔を上げ、何度も何度も頷いた。
「……ありがとう……ありがとう……! 彼女にも……最大の感謝を……!」
私はその声を遠くに聞きながら、かすかに唇を動かす。
「……礼は……目を覚ましてから、聞きますよ……」
自分でも驚くほどか細い声だった。
アルバレス卿は、泣き笑いのような表情で深く頭を下げる。
レオンは何も言わず、私を横抱きにしたまま部屋を後にした。
廊下に出ると、涼しい夜気が熱を帯びた頬を撫でる。
(……約束は……果たしましたよ)
心の中でそう呟いたところで、意識は再び眠りに落ちた。




