渦の中心で
朝日がカーテン越しに差し込んでいる。
医務室の薄い毛布の下で、私はじっとそれを浴びていた。
体の痛みはもう消えている。だが、内側は……まだ、落ち着かない。
竜の叡智。あの光の雫。
頭の奥で、知らない星の名前や、遠い大地の呼吸の音が勝手に鳴っている。
とりあえず、確かめよう。
今の私が、どれほど変わったのか。
鞄から、手のひらサイズの黒い水晶板を取り出す。
ヴェリスのギルドにて渡された、ステータス確認用の魔法具。
アークライトでは専用の水晶板があったが、この魔法具があればどこでもステータスを確認できる。
(楽でいいな)
指先をそっと当て、魔力をほんの少し流し込む。
淡い光が走り、文字が浮かび上がる。
【名前:リィア・フェンリエル】
【クラス:該当なし】
【レベル:25】
【HP:550/550(+300)】【MP:980/980(+360)】
【筋力:45(+17)】【耐久:40(+17)】【敏捷:78(+23)】
【知力:185(+65)】【器用:160(+50)】【幸運:60(+0)】
【スキル:生命活性、物質同調、身体活性、構造解析、魔力循環、剣術(中級)、竜の叡智】
「……17も、上がってますか。そんなに働いた覚えはないんですけど」
小さく吐き出す。
ただドラゴンを倒しただけではない。あの光の雫は、魂を直接変えてしまったらしい。
その時――扉が、控えめにノックされた。
「失礼いたします。リィア様、新しい装備をお持ちしました」
入ってきたのは、ギルド職員らしい若い男だった。
カートには、上質な黒革の鎧と深い森色のマント。
傷一つないその質感は、私のボロボロになった装備とは別世界だ。
「……これ、ギルドマスターのご厚意ですか?」
「はい。ゴールドランクにふさわしいものを、と」
「ふさわしい、ですか」
「え、ええ……」
男が苦笑する。私も少しだけ口角を上げた。
鎧を持ち上げる。軽い。指で革を押すと、しなやかに沈む。
「これなら、走れますね。逃げるのも、追うのも」
「ええ、きっとお役に立つかと」
「……そうだといいですね」
礼を言うと、職員は小さく頭を下げ、足早に去っていった。
残されたのは、私と、この新しい鎧だけ。
着替えて鏡の前に立つ。
そこに映っていたのは、旅を始めたばかりのただの少女ではなかった。
「……まあ、形から入るのも悪くないか」
ベルトを締め、深く息を吸い込む。
この扉を開ければ、もう後戻りはできない。
そう思いながら、私は静かに医務室を出た。
ギルドのホールは、相変わらず騒がしかった。
食器がぶつかる音、笑い声、依頼の書類をめくる音。
……だったはずなのに。
私が一歩、足を踏み入れた瞬間。
近くの席の男が、手にしていたジョッキを危うく落としかけた。
「お、おい……見ろよ」
その声が、波紋のように広がる。
笑い声が少しずつ消え、目線だけが集まってくる。
(……この感じ、嫌いです)
私はまっすぐカウンターの方へ歩く。
すると冒険者たちが、まるで見えない壁を作るように道を空けた。
声を掛けてくる者はいない。ただ、息を潜めて私を見ている。
「……おはようございます」
カウンターの受付嬢に声をかけると、彼女は妙にかしこまって立ち上がった。
「お、おはようございます。リィア様」
「様……?」
「ええと、その……ギルドマスターの指示で」
「……慣れないので、やめてもらえます?」
「あ、はいっ……」
視線が背中にまとわりつく。
もう十分。私は重い扉を押し開け、街の空気へと出た。
……そして、後悔した。
街の視線は、ギルドの中よりもあからさまだった。
「おい見ろ、あれが……」
「竜殺しの少女……」
「本当にエルフなんだな……」
足を止め、振り返る人。
露店の呼び込みすら、言葉を切らして私を見ている。
フードを深く被り、足を速めた。
……が、甘かった。
「お待ちしておりました、リィア様!」
前に回り込んできたのは、脂ぎった笑みを浮かべた男。
胸元に商人ギルドの紋章が光っている。
「我がギルドのマスターがぜひお話を、と。竜の素材について――」
「却下です」
「は?」
「今は市場に出す気はありませんので。また別の機会に」
「で、ですが――」
「それ以上は、押し売りです」
男が口を開きかけたところで、別の集団が割って入った。
領主の紋章を刻んだ鎧の兵士たち。
「リィア殿。我が主が晩餐会へお招きとのこと――」
「晩餐会、ですか」
「ええ」
「お断りします」
「え……」
兵士と商人が、私を前に言い争いを始める。
どちらが先に話すか、だの、立場がどうだの。
(……ああ、ギデオンさんが言ってたのはこれですか)
視線を投げると、二人とも一瞬黙った。
「……失礼します」
私はその場から、ふっと気配を消した。
強化した脚で人混みに紛れ、曲がりくねった路地へ滑り込む。
振り返ることなく、息も乱さず走り抜ける。
やがて人通りがまばらになった。
学者や学生が行き交う、静かな文教地区。
その中心にそびえる、大きな石造りの建物が目に入る。
「……大図書館。やっと静かに過ごせそうですね」
重い扉を押すと、外の喧騒がすっと遠ざかった。
古い紙とインクの匂いが鼻をくすぐり、ようやく肩の力が抜ける。
ここなら、少しは考え事ができそうだ。
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大図書館の中は、外の熱気が嘘のように静かだった。
高い天井まで続く書架がそびえ、古びた羊皮紙とインクの匂いが心を落ち着けてくれる。
私に向けられていた好奇や欲望の視線は、ここには一つもない。
「……落ち着きますね」
カウンターの司書に軽く会釈し、目的を告げる。
「ドラゴン関係の専門書、古いものでお願いします」
「古代種も含めてよろしいですか?」
「ええ。……埃をかぶっていても構いません」
やがて机の上に積まれた、革張りの古書たち。
私は一冊を開き、ゆっくりとページをめくっていく。
竜の魔石――魔力の増幅器。
竜の宝玉――魔力の流れすら視ることを可能にする。
虹色の逆鱗――あらゆる属性の魔法を吸収し、無効化する防御材。
「……これはまた、えげつない性能ですね」
背筋に寒気が走る。
こんな代物を、つい先日までブロンズの札をぶら下げていた私が持っている。
街の連中が血眼になる理由も、よく分かる。
(ドラゴンアイは片眼鏡に加工すれば……逆鱗は盾か胸当てに……)
思考を巡らせていると、ある一文が目に留まった。
『――古代竜は死の間際、自らが認めた者に叡智と力を授けることがある。それは光の雫となりて選ばれし者の魂へ注がれ、竜の記憶を継ぐ最初の賢者となる――』
「……なるほど。竜の叡智、ですか」
あの黄金の光。
脳裏に今も渦巻く、膨大な記憶の奔流。
それが何なのか、ようやく言葉として結びついた。
近くの席にいた若い司書が、そっと声をかけてきた。
「……それ、本物を見たことがあるんですか?」
「ええ、まあ。落ちてきたので、拾いました」
「ひ、拾った……?」
「捨てられていたわけじゃないですよ。譲られたんです」
「……すごいですね」
「すごいかどうかは、使い方次第です」
私は静かに本を閉じた。
英雄でも、竜殺しでもない。
私はただの旅人。
この力も、名声も――全部、私の目的のための道具に過ぎない。
彼らが私に価値を見出すなら、その価値を利用してやればいい。
「さて……どう使いましょうか」
エンシェントドラゴンの素材は万能ですが、そもそもこの世界ではほとんど出会えないような存在です。
今回リィアが討伐したのは年老いた中型の竜でしたので何とか勝てた、ということですね。
老いた竜は自身の魔力をうまくコントロールできなくなっていき、最終的に霧の谷の瘴気のようなものを生み出してしまいます。




