森を訪れた旅人
ミエルと友達になってから、一年が過ぎた。
十三歳になった私の日常は、書斎と、彼女と過ごす森の中がその全てだった。
「リィア、こっち! この岩陰に、『陽だまり茸』がよく生えるの」
「本当ですか? 図鑑で見たことはありますけど、実物は初めてです。湿気を好むのに、不思議な名前ですね」
「ふふ、夜の間に月の光を溜め込むから、昼間は陽だまりで眠ってるんだって、お母さんが」
ミエルは、私が本でしか知らない知識を、こうして生きた形で教えてくれる。
彼女は私の最初の友達であり、そして、初めての「先生」でもあった。
逆に、私が人間の本で読んだ物語――騎士やお姫様、空飛ぶ竜の話をすると、彼女はいつも目をキラキラさせて聞いてくれた。
私たちの世界は、二人でいることで、何倍にも、何十倍にも広がっていった。
けれど、私の心のどこかでは、まだ満たされない渇望が、静かに燻り続けていた。
ミエルとの友情が深まれば深まるほど、父に許された人間の本を読めば読むほど、その気持ちは強くなる。
(外の世界は、本当に父が言うような、争いだらけの場所なのかな……)
本の中の人間たちは、確かに戦いもする。でも、それと同じくらい、笑い、泣き、誰かを愛していた。
私や、父や、母と同じように。
その事実を知ってしまった今、父の言葉は、私を守るための優しい壁であると同時に、私をこの森に縛り付ける、窮屈な檻のようにも感じ始めていた。
そんなことを考えていた、ある日のことだった。
家の外から、微かなざわめきが聞こえてくる。普段は静かなこの街では、珍しいことだ。
「何かあったのですか?」
台所で夕食の準備を手伝っていた私は、窓の外に視線を送りながら尋ねた。
「ええ、珍しいお客様がいらっしゃったのよ。人間の、学者様なんですって」
人間の、学者。
その言葉に、私の胸がとくんと高鳴った。
父の話では、人間の国との間に正式な交流はない。だが、ごく稀に、特別な許可を得た学者が、この森の生態系を調査するために訪れることがあるという。
きっと、その一人なのだろう。
(見てみたい……! 本物の、人間……!)
逸る気持ちを抑えられない。
「少しだけ、外の様子を見てきてもいいですか?」
「まあ、あなたからそんなことを言うなんて珍しいわね。ええ、いいわよ。でも、遠くから見るだけにするのよ?」
「はい!」
私はミエルの手を引くと、広場へと続く道を、小走りで駆け出した。
広場の中央には、数人の護衛のエルフに囲まれて、一人の女性が立っていた。
私たちの両親も、少し離れた場所から、興味深そうにその様子を見守っている。
あれが、人間……。
長い黒髪を後ろで一つに束ね、動きやすそうな旅装に身を包んでいる。腰には短い剣と、たくさんの革のポーチ。その佇まいは、森に生きる私たちとは明らかに違う、乾いた風の匂いがした。
歳は二十代半ばだろうか。日に焼けた健康的な肌に、穏やかで知的な瞳。
彼女は、護衛のエルフたちに何かを丁寧に説明している。
その声は、凛として、心地よく響いた。
そして、ふと、こちらの茂みに隠れる私たちに気づいたのだろう。
彼女は、にこり、と。
とても綺麗な、穏やかな笑みを、こちらに向けた。
その瞬間、私はなぜだか、心臓をぎゅっと掴まれたような気持ちになった。
その夜、私たちの家は、いつもより少しだけ賑やかだった。
あの日中の女性――学者のエレーナさんは、父の計らいで、私たちの家に滞在することになったのだ。
「……というわけで、リィア。彼女が調査を終えるまでの間、うちで預かることになった。くれぐれも、失礼のないようにな」
父は、少しだけ照れくさそうに、しかしどこか誇らしげにそう言った。
「私はエレーナ。見ての通り、ただのしがない学者さ。よろしく頼むよ、お嬢さん」
エレーナさんは、そう言って悪戯っぽく片目を瞑る。
夕食の席で、エレーナさんは外の世界の話をたくさんしてくれた。
ヴェリスという商業都市の活気。南の砂漠に眠る古代遺跡の謎。そして、彼女が追い求める、この世界の成り立ちに関する、壮大な仮説。
その話の一つ一つが、私とミエルの心を、強く、強く惹きつけた。
父も、最初は警戒していたものの、エレーナさんの深い知識と、何よりその誠実な人柄に、いつの間にか心を許しているようだった。二人が錬金術の素材について、専門的な議論を交わしているのを、私は夢中になって聞いていた。
(すごい……。父が、あんなに楽しそうに誰かと話すのを、初めて見たかもしれない)
その夜、私は自分の部屋のベッドで、興奮でなかなか寝付けずにいた。
窓の外には、二つの月が静かに輝いている。
(人間は、危険なだけじゃない。面白い。もっと、知りたい)
エレーナさんとの出会いは、私の心の中に燻っていた外の世界への憧れに、確かな火を灯した。
この火が、やがて私を、大きな旅へと導くことになる。
友達に案内してもらう街は、また違った1面を見せてくれる。
次回から本格的に学院編が始まります。