竜殺しの少女
意識が、ゆっくりと、どこまでも温かい光の中へと浮かび上がっていく。
身体の芯まで染み込むような、柔らかな安らぎ。まるで、春の陽だまりに全身を包まれているようだ。
――ここは……どこでしょう。
最後に見たのは、古竜が私に遺した、黄金の光の雫。
そして、リリちゃんがくれた花の腕輪が、私の意識が途切れる寸前に、きらりと瞬いた優しい光。
(……私は、生きている……のですね)
夢と現実の境界が曖昧だ。
脳裏を、言葉にならないほど膨大な知識と記憶が、星々の川のように駆け巡っていく。
大地の脈動、生命の循環、そして、悠久の時を孤独に生きた、一つの魂の記憶。
あれは、古竜の叡智。あの最後の光は、彼が生きた証そのものだったのか。
私は、ゆっくりと重い瞼を持ち上げた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れぬ、しかし清潔な白い天井。鼻先をくすぐるのは、馴染み深い上質な薬草の香り。
どうやら、それだけは確かだ。
上体を起こそうとした途端、全身に鈍い、しかし確かな痛みが走った。
「……無理はしない方がいい」
低く、落ち着いた声に視線を巡らせると、窓際の椅子に、一人の男が腰掛けていた。
磨き上げられた銀の鎧。鋭さと、理知の光を湛えた灰色の瞳。
「あなたは……ギルドでお会いした……」
声が、ひどく掠れてうまく出ない。
「レオンだ。《蒼き剣》の。……俺たちが、君を谷から運び出した」
霧の谷で、私に真摯な忠告をくれた、ゴールドランクの冒険者。記憶の奥底から、その名と姿が浮かび上がってくる。
「……助けて、くださったのですね。ありがとうございます」
私がそう礼を述べると、彼は小さく首を横に振った。
「礼は要らない。君自身の生命力と、その腕輪の奇跡が君を救ったんだ。ただ……」
椅子から立ち上がり、私の傍らに歩み寄る。その真っ直ぐな灰色の瞳が、私を見据えた。
「……目が覚めて、本当に良かった」
それは、心の底から安堵を滲ませた声だった。
「……ここは、どこですか? 私は……どれくらい、眠っていたのでしょう」
「ヴェリスの冒険者ギルドの医務室だ。君は、丸三日、眠り続けていた」
「三日……も?」
「ああ。君の身体は、うちのヒーラーの魔法とポーションで、ほぼ完治している。だが、魔力が完全に枯渇していたんだ。魂そのものが、燃え尽きる寸前だった。それで、回復にこれだけの時間がかかった」
そう言って、彼はベッド脇のテーブルから、水の入ったグラスを差し出してくる。私はそれを受け取り、渇ききっていた喉を潤した。
「あの竜は……」
「ああ。ギルドマスターが、討伐を正式に確認した。君が持ち帰った素材が、何よりの証拠だ」
彼は、そこで少しだけ、楽しそうに笑みを浮かべた。
「……リィア君。君は今、このヴェリスで一番の有名人だ」
その言葉の意味を、私が正確に理解する前に、コンコン、と扉がノックされた。
入ってきたのは、ギルドマスターのバレリウスさんと、あの眼鏡の受付嬢だった。
バレリウスさんは私の顔を見るなり、その厳つい顔を、これ以上ないほどにほころばせた。
「おお、目が覚めたか、リィア殿! いや、本当に、心配したんだぞ!」
受付嬢も、いつもより少しだけ柔らかな、安堵の笑みを浮かべて、深く頭を下げる。
「……ご無事で、何よりです。リィア様」
「……様?」
その、聞き慣れない呼び方に私が眉をひそめると、バレリウスさんはベッド脇へ腰を下ろし、にやりと笑った。
「リィア殿。君が、何をしたか分かっているかね? 君はただ依頼を果たしただけではない。このヴェリスの、数百年分の歴史を、たった一人で書き換えたのだ」
彼が差し出したのは、私の冒険者プレート。
だが、それはもう、見慣れた鉄の色ではなかった。
太陽の光をそのまま閉じ込めたかのような、重厚で、気品のある黄金の輝き。
「……これは……」
「ゴールドランクだ。ブロンズから、シルバーを飛び越えての特例中の特例昇格だ。本来なら、プラチナでもおかしくないほどの偉業だが、さすがに前例がなさすぎてな。これが、今のギルドで示せる、最大限の敬意だ」
現実感が、追いつかない。私が……ゴールド?
「君のおかげで、霧の谷の瘴気は完全に消え去った。あの土地は、やがて豊かな森へと蘇るだろう。……リィア殿。君は、この街の英雄だ」
言葉の重さに、私はただ、黙って黄金のプレートを見つめるしかなかった。
「それと、君が持ち帰った竜の素材だが、今はギルドの宝物庫で厳重に保管している。どうするかは、君が完全に回復してから決めればいい」
バレリウスさんは、そこで少しだけ声を潜めた。
「だが、その存在は、もう街の有力者たちの耳にも入っている。商人ギルド、職人ギルド……この地を治める領主も、だ。これから、多くの者が君に接触してくるはずだ。くれぐれも、用心しろ」
その警告が、妙に現実的に響いた。
彼らが去ると、レオンが再び近寄ってきた。
「……リィア殿。マスターの言う通りだ。君はもう、ただの新人冒険者ではない。君のその力と名は、良くも悪くも、人を惹きつける」
「……つまり、『深紅の牙』のような方々が、また寄ってくる、ということですか?」
私のその言葉に、彼は苦笑した。
「ああ、それも、以前とは比べ物にならんくらい、な。……だから、提案がある。もし君さえよければ、俺たち《蒼き剣》の仲間にならないか? 共に依頼をこなし、共に背中を預ける。そうすれば、余計な輩も手出しはできんだろう」
それは、どこまでも誠実な響きを持った誘いだった。
だが、それは同時に、私の自由な旅の終わりを意味していた。
「……お心遣い、感謝します、レオン殿。ですが……まだ、私には決められません。もう少しだけ、考える時間をいただけないでしょうか」
私の答えに、レオンはほんの僅かに、寂しそうな笑みを浮かべて頷いた。
「ああ、分かった。だが、約束してくれ。困った時は、必ず俺たちを頼ると」
彼が去った後、医務室に完全な静寂が戻る。
私は、ずしりと重い黄金のプレートを手の中で握りしめ、窓の外に広がるヴェリスの巨大な街並みを見つめた。
(英雄、ゴールドランク、竜の素材、そして、有力パーティからの勧誘……)
どうやら、私は眠っている間に、とんでもない嵐の中心に、立たされてしまったらしい。
問題は、山積みだ。




