ドラゴンスレイヤー
その日、俺たち《蒼き剣》は、重苦しい沈黙のまま、再びあの忌まわしき「霧の谷」の入り口へと戻ってきていた。
先頭を歩く俺――レオン・ヴァーミリオンは、数日前にこの谷で下した苦渋の撤退という判断を、今も引きずっていた。胸の奥に燻る悔しさと、自分の判断は本当に正しかったのかという苛立ちが、思考の中で渦を巻いている。
「ちっ……結局、瘴気の原因は分からずじまいかよ」
後方で、パーティの盾役である大男、グラントが唾を吐き捨てるように言った。
「あの気味の悪い霧さえなきゃ、もう少し奥まで行けたんだがな」
俺も、無言で頷く。あの瘴気は、ただの毒気ではない。身体の奥底、魂そのものにまで浸食してくるような、陰湿で粘りつくような感触。ゴールドランクの俺たちでさえ、長時間の活動は命取りになると判断せざるを得なかった。
「……ん?」
その時、斥候役のカイルが、ぴたりと足を止めた。獣のように鼻をひくつかせ、目を細めている。
「リーダー……谷の空気が、変わってます。あの瘴気が……ほとんど、消えかかってる」
その言葉に、俺たちは思わず顔を見合わせた。
そんな馬鹿な。自然に消えるような代物なら、この谷が「呪われた地」などと呼ばれるはずがない。
これは――この谷で、何かがあった証拠だ。
俺は指で簡潔な合図を送り、全員が無言で武器を構える。
一歩、また一歩と谷へ足を踏み入れるごとに、まとわりつくような灰色の霧は嘘のように薄くなり、視界がみるみる開けていく。足元の岩肌が以前よりもはっきり見え、耳に届く風の音も、どこか澄んで聞こえた。
そして……風に乗って運ばれてくる、強烈な魔力の残滓。
それは、肌をピリピリと刺すような鋭さと、背骨の奥まで響くような、途方もない重みを伴っていた。まるで、大地そのものが、つい先ほどまで暴風の中心にあったかのような……そんな凄まじい戦いの余韻。
「……おいおい、嘘だろ」
グラントが、呆然と呟く。
「これ……人間が出せる気配じゃねえぞ。神話に出てくる、魔王でも降臨したのか?」
仲間たちが息を潜め、足音すら抑えながら谷の奥へと進んでいく。
やがて――視界が完全に開けた瞬間、俺たち全員の動きが、凍り付いた。
そこは、巨大なクレーターのように地面が抉れ、岩壁は幾重にも崩れ落ち、所々が黒く焦げ付いていた。焼け焦げた硫黄の匂いが、鼻を刺す。
まるで、神々が本気で戦いを繰り広げた後のような、圧倒的な惨状。
そして、その中心に――一人の少女が、倒れていた。
血と泥に汚れ、本来の色を失った白金の髪。ずたずたに裂けた旅装の隙間から覗く、無数の擦過傷と、およそ生身の人間が受けるとは思えないほどの深い裂傷。
先日、ギルドで見たばかりの、あの無謀なエルフの新人――リィア・フェンリエル。
「……リィア、だったか」
俺の声が、自分でも驚くほど低く、そして乾いて響いた。
彼女の胸元で、小さな白い花の腕輪が、淡く、脈打つように光を放っている。その光は、今にも消えそうなほど弱々しい。だが、その光だけが、彼女の命をこの世に必死に繋ぎ止めているようだった。
「ミーシャ、容態を確認しろ。カイル、グラントは周囲を警戒! 罠の可能性も捨てきれん!」
「了解、リーダー!」
パーティのヒーラーであるミーシャが、足音を忍ばせて少女の傍らに膝をつく。そっとその手首に触れ、緑の治癒光を灯す。
だが、その瞬間。ミーシャの表情が、恐怖に凍りついた。
「リーダー……! これ、信じられません……!」
その声は、明らかに震えている。
「全身の骨に複数の複雑骨折、内臓も複数損傷しています……! 魔力は完全に枯渇し、生命力も風前の灯火……。普通なら、とっくに即死です……! なのに、この人……まだ、生きてる……! 生きていること自体が、奇跡です……!」
その時だった。
「リーダー! これを見てください……!」
カイルが、切迫した声を上げた。彼が指差す先は、少女の腰に下げられた革のポーチ。そこから、凄まじい魔力の圧力が、隠しきれずに漏れ出していた。
俺は慎重にそのポーチを開け、中身を地面へと広げた。
次の瞬間――息を呑む音が、俺たち全員から、同時に漏れた。
そこにあったのは、
こぶし大の、最高純度の竜の魔石が数個。
黄金の瞳が結晶化したかのような、巨大な宝玉が一つ。
そして、月光を浴びて虹色に輝く、一枚の逆鱗。
どれもが、Sランクの討伐依頼でもお目にかかれない、伝説級の素材――。
「……まさか……」
「一人で、あのドラゴンを……倒した、というのか……?」
「いや、あり得ねぇ……ついこの間まで、ブロンズだったんだぞ……」
仲間たちの信じられないといった言葉を背に、俺の頭の中で、数日前のギルドでの彼女の言葉が鮮やかに蘇る。
『力が駄目なら、別の方法を探せばいい。それだけの話です』
――あれは、若さ故の虚勢ではなかった。本物の、覚悟と実力に裏打ちされた言葉だったのだ。
俺は、足元に転がっていた黒い剣――彼女の愛剣セレネを拾い上げる。あれほどの激闘の後だというのに、刃こぼれ一つない、完璧な状態。
「……ミーシャ、最高位回復魔法だ。ポーションも惜しまず全部使え。カイル、グラント、周囲警戒を最大レベルに引き上げろ。この娘を、ここで死なせるな」
仲間たちが、俺の命令に一斉に動く。
ミーシャの放つ温かい光がリィアの身体を包み込み、その顔にかすかに血の気が戻っていく。
「……すごい……回復魔法に、身体が素直に反応していきます。この生命力……尋常じゃありません……!」
その言葉に、俺たちは、ほんの少しだけ安堵の息をついた。
俺たちは担架にリィアを乗せ、夜を徹して谷を後にした。
外に出ると、あの濃密な瘴気は影も形もなく、ただ澄み切った夜気が広がっている。月明かりだけが、静かに谷を照らしていた。
――たった一人の少女が、この死地を浄化したのだ。
夕暮れ、ヴェリスのギルドへと帰還する。
扉を押し開けた瞬間、ホールの視線が一斉にこちらへ集まった。《蒼き剣》が、血塗れの新人エルフを担架で運び込む姿は、それだけで異様だった。
「……リィア・フェンリエル……!?」
受付の眼鏡の女性が、悲鳴に近い声を上げる。
そこへ、嫌味な笑みを浮かべたライバルパーティ「深紅の牙」のリーダー、ダリウスが歩み寄ってきた。
「おやおや、レオン殿。無謀な依頼の末路、とはこのことか。だから言ったんだ、若造は身の程を知るべきだと――」
俺は足を止め、振り返る。視線が、火花を散らすようにぶつかった。
「……黙れ、ダリウス。彼女は、無様などではない。この街を救った、英雄だ」
その一言で、ダリウスの歪んだ笑みが、わずかに引きつった。
それ以上相手にせず、俺はギルドマスターの執務室へ直行する。
数分後、血相を変えたマスターと共に、ホールへと戻ってきた。
「――全員、静粛にしろ!」
マスターの重厚な声が、ホールに響き渡る。瞬時に、全てのざわめきが止んだ。
「たった今、緊急の報告が入った! 長年、ヴェリスを脅かしてきた『霧の谷の瘴気』は、完全に消滅した! 原因であった古竜は、討伐された!」
爆発のような、どよめき。マスターは、一拍置いて続ける。
「そして――この、ゴールドランクパーティですら成し得なかった偉業を成し遂げたのは、ただ一人。ブロンズランクの冒険者、リィア・フェンリエルだ!」
その瞬間、ホール全体が、再び沸き立った。




