死闘の幕開け
ドラゴンの咆哮が、谷全体を揺るがした。
それは、ただの音量ではない。空間そのものを震わせる絶対的な魔力の奔流だ。風圧が霧を一瞬で吹き飛ばし、肌を裂くようなプレッシャーが全身を叩きつけてくる。私はセレネの刃を地面に深く突き立て、その衝撃に足が持っていかれないよう、必死に踏みとどまった。
胸の奥で、恐怖と、そしてほんのわずかな興奮が混じり合う。
だが、感情を整理する時間は与えられなかった。
ドラゴンの胸が大きく膨らみ、その喉の奥が、谷に満ちる瘴気と同じ、不吉な灰色の光で満ちていく。
私の脳が、その現象を瞬時に分析し、最悪の答えを弾き出した。ブレスだ。
逃げ場はない。このクレーター状の窪地で、あの広範囲攻撃を避ける手段は存在しない。
ならば――受け止めるしかない。
私は呼吸を整え、持てる魔力の全てを、この一点に賭ける覚悟で練り上げた。治癒と強化――本来は守りではなく、支え、創り出すための私の術式を、力ずくで防御の形へと組み替える。
白金の光が私の全身から迸り、目の前に複雑な紋様を刻んだ半球状の光壁を形成した。
その瞬間――灰色の死の奔流が、轟音と共に私を呑み込んだ。
ギシッ、ミシリと、結界が悲鳴を上げるように軋む。
魔力が、まるで決壊したダムの水のように、凄まじい速度で失われていく。あと数秒もたない。だが、ここで崩れれば全てが終わる。
指先から感覚が薄れていく中、私はただ、歯を食いしばって結界の維持に全神経を集中させた。
やがて、灰色の奔流が途切れる。
光壁は、役目を終えたガラス細工のように粉々に砕け散り、魔力の残滓が空に消えた。
膝が勝手に折れ、地面に片膝をつく。だが――生きている。
視線を上げると、ドラゴンの黄金の瞳が、私を射抜いていた。
そこには、明確な「驚き」の色が宿っている。まさか、自身のブレスを正面から受け切る定命の者がいるとは、想像だにしなかったのだろう。
だが、その驚きは長く続かない。黄金の光が揺らぎ、今度は純粋な「怒り」へと変わった。
巨大な腕が振り上げられ、私に死の影を落とす。
私は、わずかに残った魔力を総動員し、セレネを握りしめて地面を蹴った。
思考を加速させる。正面からの力比べは論外。ならば――この地形を、最大限に利用する!
爪が振り下ろされる瞬間、私は横へと跳んだ。轟音と共に、先ほどまで私がいた地面が粉砕され、石片が霧の中に舞い上がる。
私はクレーターの急な斜面を、まるで駆け上がるように走る。
背後から、苛立たしげな唸り声と、岩を砕く爪音が追ってくる。その巨体は驚くほど俊敏だが、私の身軽さにはついてこれない。
岩場から岩場へと飛び移り、ドラゴンの爪を、何度も、何度も空振りさせる。谷全体が揺れ、岩屑が雨のように降り注いだ。ほんの一歩間違えれば死ぬ。だが、その死の縁は、むしろ私の感覚を極限まで鋭く研ぎ澄ませていった。
見えた。
爪を振り下ろした直後、ほんの一瞬だけ露わになる――鱗に覆われていない、関節の内側。
私は、頭上にある、ひときわ高くそびえる岩柱を駆け上がる。私を見上げたドラゴンが、再びその巨大な爪を振り上げ――今だ!
私は、岩柱の頂点から飛び降りた。
落下による重力の加速を、そのままセレネの刃に乗せ、逆手に握り直した剣を、がら空きになったその一点へと、全力で突き立てた。
ザシュッ――!
確かな手応えと共に、分厚い筋肉を裂く感触が腕を伝った。
「グルオオオオオオッ!」
初めて聞く、苦痛に満ちた咆哮。
巨体が後ずさり、傷口から灰色の血を流す。だが、傷は浅い。致命傷には、ほど遠い。
そして、黄金の瞳が、今度こそ本物の殺意を宿した。
黄金の瞳が、鋭く細められた。
傷ついた脚など意にも介さぬように、巨体は再び私へと向き直る。息が詰まるほどの圧迫感。谷の空気そのものが、竜の怒気で満たされていく。
口が、大きく開かれた。だが、そこから吐き出されたのは瘴気のブレスではなかった。
それは、詠唱ではない。私の知識でもほとんど記録のない、古代竜の「言葉」。
空気そのものが言霊に震え、足元の地面に巨大で複雑な魔法陣が瞬時に浮かび上がる。
反応するより早く、地面から無数の光の鎖が伸び、私の手足を瞬時に絡め取った。
「――っ!」
全身の自由が奪われ、セレネすら動かせない。鎖は焼けるように熱く、そこから侵入してくる異質な魔力が、体内のマナの流れを乱していく。呼吸が浅くなり、心臓の鼓動さえ、不自然に重くなった。
ゆっくりと、巨大な頭部が私の眼前へと降りてくる。熱い吐息が肌を焼き、溶岩のような匂いが鼻腔を刺した。その黄金の瞳が、まるで標本でも観察するように、私の全てを測っている。
ここまで、か。
そう思った瞬間、胸の奥で、何かが燃え上がった。
父から受け継いだ月鋼、グラックさんと作り上げたセレネ、アークライトでの出会い、そして――故郷で待つ、友の顔。
(いいえ……まだです。私は、まだ、死ぬ気はありません!)
私は鎖に締め上げられた腕の中で、かすかに拳を握った。そして思い出す。腰のポーチに眠る、最後の切り札を。
指先が、ポーチの奥でひんやりとした硬い感触を捉える。ロックリザードの魔石。
――賭けだ。失敗すれば、私ごと吹き飛ぶ。
鎖に締め付けられたまま、私は残っている魔力の最後の一滴までを、その石の奥へと、無理やりねじ込んでいった。
魔石が、私の魔力を拒むように激しく震える。それでも、容赦なく押し込む。
そして、私の知識が知る限り、最も脆い魔石の内部構造の一点だけを、狙い撃つ。
――砕けろ!
ピシリ、と。手の中で、乾いた亀裂の音が走った。
同時に、熱い奔流が指先から腕へ、そして全身へと一気に駆け抜ける。魔石の亀裂から、荒々しい土属性の魔力が、洪水のように噴き出したのだ。
谷の地面が震え、細かい石が宙に舞い上がる。
その急激な変化に、目の前のドラゴンが反応した。黄金の瞳に、初めて焦りの色が差す。
土の魔力は瞬く間に地面へと浸透し、足元の大地が膨れ上がった。鋭い石槍が、次々と地表を突き破り、私を拘束していた光の鎖を、内側から引き裂いていく。
私は、その衝撃を利用して、拘束から完全に抜け出した。
まだだ。まだ、終われない。




