霧の谷の瘴気
私が「霧の谷」の依頼を受けたという噂は、その日のうちにヴェリス中へ広まった。
酒場ではもう賭け事が始まっている。
「昼までに戻るに銀貨五枚」
「いや、夜明けまでが限界だ」
「……いや、もしかしたらやるかもな」
「深紅の牙」も「蒼き剣」も、まだ接触してくる気配はない。
おそらく、私がどう動くのかを見ているのだ。
宿の一室。机の上には薬瓶と魔法具がずらりと並んでいる。
解毒薬、麻痺解除、肺の浄化ポーション、そして空気を浄化するための簡易魔具。
一つ一つを丁寧に腰のベルトや鞄へ収めていく。
「こういうのは、惜しんだら死にますからね」
「説明書に“長時間つけると頭痛がするかも”ってありますけど……死ぬよりはマシでしょう」
報酬のほとんどを準備に費やしたが、後悔はなかった。
翌朝、北門から出発する。
門兵がカードを確認しながら言った。
「……本当に行くのか?」
「ええ。引き返す予定はありません」
街道を半日進み、獣道に入った途端、景色は急に変わった。
木々は色を失い、黒い斑点が浮かび、鳥も虫も声を潜めている。風の音すらない。
「……静かすぎますね」
やがて霧の谷の入り口が見えた。
灰色の霧が地を這い、肌にまとわりつく。舌の奥には金属の味。
清浄の魔石を口に含み、軽く噛む。
霧の谷に足を踏み入れた瞬間、背後の世界が音ごと切り離された。
空気はぬめりを帯び、肺に入れるたびに喉が微かに焼ける。
視界は数メートル先までしか見えず、灰色の霧が全てを呑み込んでいた。
(……空気、重すぎますね。肺が嫌がってます)
靴音だけがやけに大きく響き、それすらも霧に飲まれてすぐに消えた。
けれど瘴気は流れを持っていて、まるで私の進むべき方向を教えるようだった。
進む途中、崩れた天幕と放置された野営の跡を見つけた。
支柱は折れ、剣は柄からぽろりと崩れ落ち、革袋からは酸っぱい臭いが漂う。
(戦闘じゃない……これは、逃げきれなかったのかな)
剣の断面を指でなぞると、金属がざらりと粉を吹いた。
口の中の清浄の魔石がじりじりと熱を帯び、ひび割れる。
私は短く息を吐き、魔力を薄く展開して膜を作った。
奥へ進むごとに、瘴気は濃さを増す。
そして――その中心から、一定の間隔で「押し寄せてくる」ものがあった。
まるで肺が膨らんだり縮んだりするような、規則正しい脈動。
やがて視界が開けた。
谷の最深部、巨大なクレーターのような窪地の中央――そこにいたのは。
(……わぁ)
黒曜石のような鱗を持つ巨体。
全長二十メートル、山のような背が呼吸に合わせて上下し、そのたびに鼻先から濃い瘴気が吐き出される。
一つ一つの鱗は大盾ほどの大きさ。月光を受けて淡く輝いていた。
(ドラゴン……)
依頼は「原因の調査」。
(……鱗をもらえれば最高ですけど…)
私は小瓶を取り出し、封印の結界を張った。
(瘴気、お持ち帰りします。……おとなしく入ってくれると助かるんですが)
蓋を開け、魔力で引き寄せると、灰色の瘴気が渦を巻きながら小瓶に吸い込まれていく。
その瞬間――。
谷全体に響いていた寝息が、ぴたりと止まった。
(……あ、やりましたね私)
ゆっくりと巨大な瞼が開く。
黄金の瞳が真っ直ぐこちらを見据えた。
その視線は、私が岩陰に隠れていることなど最初から承知していたかのようだった。
(逃げるなら、今……いや、たぶん間に合いません)
喉奥から響く低い唸りが地面を震わせる。
巨体が立ち上がり、鱗と鱗が擦れ合って硬質な音を立てた。
腰のセレネを抜き、正面に構える。
切っ先は微動だにせず、足も震えていない――少なくとも外見は。
(……生き残りますよ。ええ、もちろん)




