投じられた一石
ヴェリスに来てから、数日が過ぎた。
私が最初に受けた依頼――西の丘陵地帯に巣くうというオーク三体の討伐は、想像以上に骨が折れた。
廃坑の奥深く、湿った空気とカビの匂いが満ちる中、私はセレネを静かに抜き放った。三体のオークは、私を見つけるなり、獣のような咆哮を上げて棍棒を振りかざし、襲いかかってきた。
アークライトの鉄鋼猪とは違う。彼らは粗末ながらも武器を使い、連携し、そして何より、狡猾な知性を持っていた。
(一体が前衛、二体が左右から回り込む……! 単純なようで、厄介な陣形ですね)
私は強化魔法で身体能力を引き上げると、まず一体目の棍棒の薙ぎ払いを、身をかがめて避ける。そして、その懐に潜り込み、セレネで分厚い皮の鎧の隙間――脇腹を深く切り裂いた。
だが、致命傷には至らない。オークは苦悶の声を上げながらも、その巨体で私を壁際へと押し潰そうとしてくる。
「――おっと」
私は壁を蹴って宙を舞い、二体目と三体目の挟撃を回避する。着地と同時に、一体の足元を狙って剣を閃かせ、その体勢を崩した。
狭い坑道の中、三つの巨体が暴れ回る。単純な力比べでは、こちらが不利だ。
(……ですが、この地形は、私の味方でもあります)
私は一体のオークを挑発するように斬りつけると、さらに坑道の奥へと後退した。怒りに任せて追いかけてくるオーク。その頭上の、脆くなった岩盤に、私は一瞬だけ視線を送る。
強化魔法をかけた小石を、天井の一点に投げつけた。
パラパラと土砂がこぼれ、次の瞬間、小規模な落盤がオークの頭上に降り注ぐ。
一体が、悲鳴と共に岩の下敷きになった。
「さて……これで、二対一ですね」
残りの二体は、仲間がやられたことに怯むどころか、さらに凶暴性を増して襲いかかってくる。
だが、数が減れば、私の剣の間合いだ。
セレネの黒い刃が、月光を浴びた大地のように、琥珀色の光を帯びる。ロックリザードの魔石が、私の魔力に応えていた。
土の魔力を纏った刃は、オークの棍棒を弾き返し、その重い一撃ごと、相手の腕を断ち切った。
最後の仕上げは、静かだった。
抵抗する力を失った二体の喉元を、セレネで正確に貫く。
坑道には、私の荒い息遣いと、魔石が放つかすかな光だけが残された。
「……ふぅ。あなたのおかげで、少しだけ楽ができましたね、セレネ」
翌日。私が証拠品――三体分の、見事な牙――をギルドの受付へ置いた瞬間、ホールのざわめきがすっと消えた。
眼鏡の女性職員が、信じられないものでも見たかのように、私と牙を交互に見比べる。
「……これ、まさか、一人で?」
「ええ。少しだけ、足場が悪くて苦労しましたけれど」
「……ブロンズランクへの昇格、です。おめでとう、ございます」
こうして私は、ヴェリスに来て早々にブロンズランクとなり、それからの日々は、薬草採取や納品といった、比較的穏やかな依頼をこなしながら過ぎていった。
その日も、簡単な依頼を終えた私は、ギルド併設の酒場で遅い昼食を取っていた。
スープを口に運ぼうとした、その時。隣のテーブルに座る、ベテラン冒険者たちの会話が、私の耳に鋭く突き刺さった。
「おい、聞いたか? 王都の方で、また物騒な噂が立ってるぜ」
「ん? ああ……“神の兵団”とかいう、アレか?」
私のスプーンが、ぴたりと止まった。
「そうそう。まだガキみたいな若造どもの集まりなんだが、なんでも、一人一人が俺たちシルバーランクより強ぇって話だ」
「騎士団が、その存在を必死に隠してるらしいじゃねえか」
「なんでも、異世界から来た『勇者』様ご一行だとか……。はっ、くだらねえ。ま、俺たちには関係ねぇ話だがな」
彼らは大笑いして、すぐに別の話題へと移っていった。
だが、私の胸の奥では、忘れかけていた古い扉が、ぎぃ、と音を立てて開いた。
(若者の集団……規格外の力……王都……勇者……異世界……)
頭の中で、バラバラだったパズルのピースが、一つの形を結び始める。
あの日の、光景。
閃光。魔法陣。悲鳴。
そして――神を名乗る、あの光の存在の言葉。
『彼らが召喚されるのは、まだ少し先の話だ』
(……まさか。あれは、ただの夢ではなかった……?)
結城大和の、誠実な笑顔。
葛城隼人の、傲慢な横顔。
高坂静流の、氷のように冷たい瞳。
忘れていたはずの、クラスメイトたちの顔が、霞のかかった記憶の中から、次々と浮かび上がってくる。
戦場など知らない、ただの高校生だった、彼らの顔が。
(……そうでしたか。彼らも、この世界に来ているのですね)
私は、静かに椅子を引き、立ち上がった。
私が向かったのは、いつもの銅の掲示板ではない。さらに奥。シルバーランク以上の、高難易度の依頼だけが貼られる「銀の掲示板」。
背後から、「おい、あのエルフ、どこへ行く気だ」「身の程知らずってやつだ」という、嘲笑混じりの声が突き刺さる。
私は足を止めず、ちらりと視線だけを返した。
「……少し、見物するだけです。道を塞がないでいただけますか」
その静かな声に含まれた圧力に、数人の冒険者がたじろぎ、道を開けた。
銀の掲示板の前で、私は一枚の黄ばんだ羊皮紙に、指を止める。
『依頼内容:「霧の谷」の瘴気の原因調査』
『備考:複数のシルバーランクパーティが情報収集に失敗』
『報酬:金貨三十枚』
「霧の谷、か……笑わせる。あれはシルバーでも、生きて帰ってこれねぇ呪われた場所だぜ」
横から聞こえる声など、もう私の耳には入っていなかった。
私はその声に目もくれず、羊皮紙の端をつまむ。ビリ、と乾いた音が、ホールに響き渡った。
瞬間、空気が変わった。笑い声が止まり、全ての視線が私に集まる。
「……嘘だろ」「あの依頼書を、剥がしやがった……!」
そのざわめきを背中で受けながら、私は依頼書を手に、受付カウンターへと向かった。
頬杖をついていた眼鏡の受付嬢が、私を見て、本気で眉をひそめた。
「……あなた、正気ですか?」
「はい。いつになく、冷静ですよ」
「これが、何の依頼か、分かっていて?」
「ええ。複数のシルバーパーティが失敗し、生還率が極めて低い、原因不明の調査依頼。報酬は、金貨三十枚。違いますか?」
「……それを分かっていて、なぜ?」
「だからこそ、です。誰も解けない謎ほど、解き明かす価値がある。冒険者とは、そういうものでしょう?」
その時だった。
「――待った。その依頼、今の君に受けさせるのは無謀だ」
ホールに響く、低く、そしてよく通る声。
振り向けば、ゴールドランクのプレートと、「蒼き剣」の紋章を胸につけた、長身の男がこちらへ歩み寄ってくるところだった。
「君が、噂の新人エルフだな。オークを一日で片付けた腕は認める。だが、霧の谷は別だ」
男――レオンは、その灰色の瞳で、まっすぐに私を見据えてきた。
「谷を覆う瘴気は、ただの毒霧じゃない。方向感覚を奪い、魔力を蝕み、時に幻覚まで見せる。力任せでは、決して突破できない。我々“蒼き剣”でさえ、三日前に撤退したばかりだ」
その言葉に、周囲の空気が一層ざわめく。
「ご忠告、痛み入ります、レオン殿」
私は、深く、しかし優雅に一礼した。
「ですが、失敗例があるからこそ、試す価値があるのです。力が駄目なら、別の方法を探せばいい。ただ、それだけの話ですよ」
レオンは、ほんの一瞬だけ言葉を失った。
「……君、本気で言っているのか」
「もちろん。冗談で、金貨三十枚の仕事に命を賭ける趣味はありませんので」
私はレオンに背を向け、再び受付嬢の前へ。
「手続きをお願いします」
受付嬢は、私とレオンの顔をしばらく見比べ、やがて、大きくため息をついた。
「……分かりました。あなたの覚悟は、もう十分伝わりました」
受理の印が押される音が、ホール全体に、やけに大きく響いた。
私が依頼書を受け取り、ギルドを出るまでの間――誰一人、軽口を叩く者はいなかった。
ただ、驚愕と、畏怖と、そしてほんの少しの期待が混じった視線が、私の背中に突き刺さっていた。
ギルドの依頼ですが、ランク外の依頼を受けれないこともないシステムになってます。
今回はブロンズの一つ上だったので可能でしたが、ゴールドランクになってくると適正ランクの者しか受けれないようになっています。




