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商業都市ヴェリス

あの野盗騒ぎの後、馬車の空気はがらりと変わった。

商人たちの私に対する視線には、もう軽口も遠慮もない。代わりにあるのは、心底からの感謝と……正直、少し過剰なくらいの敬意だった。


「リィア殿! 喉は渇いていないかい? とびきり上等な果実水があるんだが!」

「リィア様、陽射しが強いでしょう、こちらの幌の下へ!」

「リィアさん、腹が減ったらすぐに言ってくれよな! 俺のとっておきの干し肉を焼くからよ!」


マーカスさんに至っては、昨日までの「嬢ちゃん」呼びをきっぱりと改め、何かにつけて「リィア殿」と呼んでくる。まるで急にどこかの国の姫君にでもなった気分だ。


(……なんだか、むず痒いですね)


敬われるのは嫌いではない。けれど、こうまで腫れ物……というよりは、壊れ物のガラス細工のように扱われると、肩が凝って仕方がない。

もう少し、気軽に話してくれてもいいのに――そんな気持ちを抱えながら、私は揺れる馬車に身を預けていた。


その後の旅は、実に穏やかだった。街道沿いには人の往来が増え、小さな茶屋や露店がぽつりぽつりと現れる。空気の匂いも変わってきた。辺境の素朴な風ではなく、金と、情報と、そして多種多様な人々の思惑の匂いが混じっている。


「リィア殿、見えてきたぞ。あれが――商業都市ヴェリスだ」

旅を始めて二週間目の午後、丘を越えた瞬間、マーカスさんが誇らしげに前方を指差した。


目に飛び込んできた光景に、私は思わず息を呑む。

(……大きい)


アークライトも活気のある都市だったが、この規模は比較の対象にならない。地平線の端まで続くような、緻密な家並み。空へ突き刺すようにそびえる白亜の塔がいくつも立ち並び、その足元を大河が雄大に横切っている。その水面を、帆をいっぱいに膨らませた大型の商船が、優雅に行き交っていた。

全てが、人の手で築かれた街――世界樹の都の、自然と調和した美しさとは違う、圧倒的に人間的な、欲望と活力の景色だった。


「どうだい、圧巻だろう。あの真ん中の一番高い塔が、商人ギルドの本部さ。大陸中の金と情報が、あの塔に集まるってわけだ」

「……ええ。まるで、石と鉄でできた、もう一つの森のようですね」


やがて馬車は、巨大な城壁といくつもの門を備えたヴェリスの正面へとたどり着いた。

私たちが並んだ商人用の門だけでも、人と馬車でぎっしりだ。門番の数も装備も、アークライトとは比べ物にならない。磨き上げられた鎧には街の紋章が刻まれ、その動きには一切の無駄がなかった。


マーカスさんが手綱を引き、馬車を止める。

「……さて、リィア殿。俺たちがしてやれるのは、ここまでだな」

そう言って、彼は御者台から振り返った。

「本当に、世話になった。あんたがいなきゃ、今頃俺たちは、野盗の腹の中か、奴隷市場の檻の中だったろうよ」


深く頭を下げられ、私は少し困ったように笑った。

「こちらこそ、道中楽しく過ごさせていただきましたから。お互い様、ですよ」

マーカスさんは口の端を上げ、悪戯っぽく言った。

「次会うときは、ヴェリス中にその名を轟かせる大冒険者にでもなってたりしてな。その時は、また俺たちの馬車に乗ってくれよ」

「ええ、喜んで。……ですが、その時は、護衛代としてもう少しだけ料金を勉強していただけると助かります」

「がっはっは! そいつは、あんたの活躍次第だな!」


最後まで陽気なマーカスさんたちと固い握手を交わし、私は馬車を降りて、一人で旅人用の門の列へと向かった。

順番が回ってきた時、兜の奥から、鋼のように冷たい声が響いた。

「プレートと荷物を見せろ」


私はフードを下ろし、鉄の冒険者プレートを差し出す。

兵士の目が、一瞬だけ止まった。だが、アークライトの門番のように動揺はしない。

「……リィア・フェンリエル、アイアンランク。アークライトでの登録か。滞在目的は?」

「旅の途中です。しばらく、この街に滞在します」

「そうか。――ひとつ、忠告しておく。この街は、アークライトのような田舎とは違う。その見た目は、時にお前さんの剣よりも、多くの敵を作る。問題を起こすな」


言葉は事務的だが、その声色には、どこか個人的な忠告めいた響きがあった。

私は滞在税を支払い、静かに礼を述べて門をくぐる。背後で「……厄介事に、巻き込まれなければいいがな」という小さな声が聞こえた気がした。


門をくぐった瞬間、音と、匂いと、熱気が、一斉に私に襲いかかってきた。

石畳を転がる無数の車輪の音、世界中の言語が入り混じる商人たちの呼び声、香辛料や焼き菓子の甘く刺激的な匂い。その間をすり抜けるように、背の低い獣人の子どもが、きゃっきゃと笑いながら駆け抜けていった。


(……すごい。これが、ヴェリス……!)


「おっと、嬢ちゃん、前見て歩きな!」

すれ違いざまに声をかけてきたのは、肩に大きな樽を担いだドワーフの商人だ。

「観光かい?」

「いいえ、仕事で。しばらく滞在するつもりです」

「ほう。なら宿は、少し高いが北区の方が静かでいいぞ。中央区は、夜通し騒がしくて眠れやしねぇからな」

「教えていただき、ありがとうございます」


見上げれば、三階建ての建物のバルコニーで、人間の女性と蜥蜴人が楽しげにワインを酌み交わしている。この街全体が、一つの巨大な市場であり、祝祭の舞台でもあるかのようだ。


私はドワーフの忠告に従い、比較的落ち着いた空気の北区画へと進む。その中ほどに、木製の看板に『木漏れ日の宿』と刻まれた、清潔そうな建物を見つけた。


扉を押すと、カウンターの奥にいた痩せた宿主が、値踏みするような目で私を一瞥した。

「いらっしゃいませ。お一人様で?」

「はい。一週間ほど、部屋をお借りしたいのですが」

「承知しました。一泊朝食付きで、銀貨五枚になります」

「アークライトの倍以上ですね」

「ええ、北区ですから。ですが、その分、静かで安全ですよ。夜でもこの辺りは衛兵の巡回が多いですし、面倒な酔っぱらいも少ない」

「……なるほど。お願いします」


銀貨を渡すと、宿主は鍵を手渡しながら、小声で言った。

「忠告ですがね、お嬢さん。この街では、美しさと金は、厄介事を呼び込む一番の餌です。どうか、ご用心なさって」

「ご親切に、どうも」


案内された部屋は清潔で、窓からはヴェリスの壮大な街並みが見渡せた。

私は荷物を下ろし、窓辺に立つ。川と橋の向こうに、天を突くような商人ギルドの建物がそびえていた。


「……まずは、情報収集。そして、冒険者ギルドへの挨拶、ですね」


ベッドに腰を下ろし、小さく呟く。

二人の門番と、宿の主人。この街に来てから出会った三人が三人とも、私に同じ忠告をした。


(油断すれば、すぐに呑まれる街……か。上等じゃないですか)


こうして、私のヴェリスでの一日目が、静かに暮れていった。

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― 新着の感想 ―
門番が巡回…は違和感ありますね
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