初めての友達
十二歳になった私の生活は、ほとんど書斎がすべてだった。
エルフの魔法書と、人間の本。
私は、その二つを交互に読み比べることに夢中になっていた。
エルフの言葉とは全く違う人間の言語は、最初はただの記号の羅列にしか見えなかった。けれど、父の書斎にあった古い辞書と、本に描かれた挿絵を手がかりに、一つ、また一つと単語の意味を解き明かしていく作業は、どんなパズルよりも面白かった。
二年が経った今では、簡単な物語なら、なんとか意味を追えるようになっていた。
その知識が増えれば増えるほど、私の心の中には、一つの新しい感情が芽生えていた。
それは、焦りに似た、強い渇望。
(……読んで、知るだけでは足りない)
本に描かれた城壁都市の喧騒を、この耳で聞いてみたい。
物語に登場する冒険者たちの熱気を、この肌で感じてみたい。
私の知りたいという気持ちは、もう書物の中だけでは収まりきらなくなっていた。
そんな思いが募っていた、ある日の午後。
私は少しだけ息が詰まるような気分になって、一冊の人間の植物図鑑を手に、家の外にある広場に来ていた。
本に描かれた花の絵と、この森に咲く花を、一つ一つ見比べていたのだ。
そんな作業に夢中になっていた、その時だった。
少し離れた場所から、意地の悪い笑い声が聞こえてきた。
「なんだよ、ミエル。また薬草摘みか? 地味だなぁ」
「そんな臭い草ばっか集めて、何が楽しいんだよ!」
視線を向けると、三人の男の子が、一人の小柄な女の子を取り囲んでいた。
(……子供のいじめ、ですか。どこの世界でも、やることは変わらないらしい)
やれやれ、と私は本を閉じた。
女の子――ミエルは、泣き出しそうな顔で小さな籠をぎゅっと抱きしめている。
男の子の一人が、その籠から無理やり、泥のついた根っこを一本抜き取った。
「うわ、くっせ! こんなもん、何に使うんだよ」
「……返してください。それ、お母さんの仕事に使う、大事なものなんです……」
「仕事ぉ? こんなんで金になるのかよ、へたくそな薬師のくせに!」
……なるほど。これは少し、度が過ぎているようだ。
私はゆっくりと立ち上がると、彼らの元へ歩いていった。
私の接近に、リーダー格の少年が気づき、威嚇するような声を上げてきた。
「あ? なんだよお前。邪魔すんじゃねえよ」
私は彼の威嚇を意に介さず、ただ彼が手にしている一本の薬草を穏やかに見つめる。
そして静かに、しかしはっきりと通る声で言った。
「あら、それは『月影草』ですね。とても貴重な薬草ですよ」
私の唐突な言葉に、少年たちはきょとんとした顔で私を見つめた。
リーダー格の少年が、馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「はあ? ツキカゲソウ? 知るかよ、そんなもん。ただの臭い草だろ」
「ええ、今は、ですけど」
私は、にっこりと微笑んだ。
「月影草の根は、夜の間にだけ特別な魔力を溜め込むんです。あなた方が“臭い”と言っていたそれも、一晩水に浸せば、素晴らしい滋養強壮薬の材料になります。腕のいい商人が買い取れば、その一本で銀貨数枚にはなりますね」
銀貨数枚。
その言葉に、少年たちの目の色が変わる。
自分たちがただのガラクタだと思っていたものが、実は高価な宝物だった。その事実が、彼らの幼い自尊心をぐらりと揺さぶったのだろう。
私は、そこで一度言葉を切り、仕上げの一言を添えた。
「……まあ、あなた方のような元気な方々には、まだ必要のないお薬かもしれませんけど」
その、子供扱いするような、しかしどこか大人びた私の言葉。
少年たちは、自分たちの無知と幼稚さを突きつけられて、顔を真っ赤にした。
「な……なんだよ、別に……!」
「う、うるせー! いらねーよ、こんなもん!」
リーダー格の少年はそう叫ぶと、まるで熱い石でも触ったかのように、手にしていた月影草を地面に叩きつけた。
そして、仲間たちとバタバタと、逃げるように去っていった。
その背中は、来た時とは比べ物にならないほど、小さく見えた。
後に残されたのは、呆然と立ち尽くすミエルと、地面に落ちた一本の薬草だけ。
私はその薬草をそっと拾い上げる。少しだけ、傷がついてしまっていた。
そして、まだ何が起きたのか理解できていない、といった顔のミエルの前に歩み寄り、それをそっと差し出した。
「……大丈夫ですか?」
私のその問いかけに、ミエルははっと我に返ったようだった。
そして、涙で潤んだ大きな瞳で、私を見上げる。
「あ……はい! だ、大丈夫です……! あの、ありがとう、ございます……!」
彼女はか細い声でそう言うと、私が差し出した薬草を、震える手で受け取った。
「あの、私、ミエル、です……。ミエル・アルドンネ」
「私はリィア。リィア・フェンリエルです。……ああ、少し根が傷んでしまいましたね。ちょっと、失礼」
私はそう言うと、彼女の手の中にある薬草の根に、そっと指先で触れた。
ほんの少しだけマナを流し込むと、私の指先から柔らかな白色の光が放たれ、傷ついた根を優しく包み込む。すると傷口が、見る見るうちに元の瑞々しい姿を取り戻していく。
「すごい……。治癒魔法……」
ミエルは、目の前で起きた小さな奇跡に、目を丸くしている。
そして、私の顔をじっと見つめて、尋ねた。
「あの、どうして月影草のことを……? 書物でしか見られないような、珍しいものなのに……」
「父の書斎で、少しだけ。……でも、本で読むのと、こうして実物を見るのとでは大違いですね。きっと、実際に森で探しているミエルの方が、ずっと詳しいはずですよ」
私は、彼女の籠を覗き込んだ。
「……ねえ、その籠の中、他にも面白いもの、入っていますか?」
私のその言葉に、ミエルの顔がぱあっと輝いた。
彼女は、自分の好きなことを認められたのが、心の底から嬉しかったのだろう。
「うん! 私、薬草のこと、大好きなの! あのね、こっちの籠に入ってるのは『陽だまり茸』っていうんだよ! それと、こっちは……」
堰を切ったように、ミエルが籠の中の薬草について、生き生きと語り始めた。
私たちは、いつの間にか広場の大きな岩に腰掛けて、夢中になって話し込んでいた。
私が本で読んだ知識を話すと、ミエルは「そうなの!?」と目を輝かせ、彼女が薬草の本当の姿を教えてくれると、今度は私が「なるほど」と感心する。
時間はあっという間に過ぎていった。
「あ……ごめんなさい! 私、薬草の話になると、つい夢中になっちゃって……」
夕日が森を茜色に染め始めた頃、ミエルははっと我に返って、慌てて頭を下げた。
「いいえ、とても楽しかったです。私、誰かとこんな風に話したのは、初めてですから」
私のその、心からの言葉に、ミエルの顔が、夕日よりも赤く染まった。
リィアに初めてのお友達ができました…!