父との約束と、開かれる扉
魔法の練習は、私の日常の中で一番楽しい時間になった。
最初は小さな光の玉を作るのが精一杯だったけれど、今ではその光を鳥の形にしたり、指先で自在に飛ばしたりできるようになっている。
物事の理屈を掴むのが得意な私の性質が、この世界の神秘である魔法の習得を、大きく助けてくれているようだった。
だが、私の本当の目標は、まだ達成されていない。
書斎の奥に眠る、「人間の本」。
父は、あれ以来、私がその本棚に近づくのを、何も言わずに、しかし鋭い目で見守っていた。
ただ「読みたい」とお願いするだけでは、決して許してはくれないだろう。
その日の午後、私は父の工房を訪れた。
彼は、複雑な紋様が刻まれた銀の腕輪を、真剣な顔つきで調整している。
「お父さん」
「……ああ、リィアか。どうした?」
「少し、魔法のことで分からないことがあって」
私は、練習していた光の魔法を、そっと彼の目の前で披露してみせた。
ただの光の玉じゃない。くるくると回転しながら、小さな蝶のように工房の中を舞う、光の蝶だ。
父は、その光景に驚いたように目を細める。
「……ほう。独学で、そこまで制御できるようになったか」
「はい。それで、相談があるんです」
私は、父の隣にちょこんと座ると、思い切って切り出した。
「私、エルフの魔法を、もっと深く知りたいんです。そのためには、比較対象が必要だと思うんですよ」
「比較対象?」
「はい。違う理屈で動くものを知ることで、初めて、今あるものの本質が見えることもあります。……だから、お願いです。私に、人間の本を読ませてください」
子供の我儘ではない。
学徒としての、真摯な願い。
父は、しばらくの間、何も言わずに私の瞳の奥を見つめていたが、やがて、観念したようにゆっくりと頷いた。
「……なるほどな。理屈は通っている。だが、知識は時に毒になる。特に、異質の知識はな」
彼はそう言うと、少しだけ考え込む。
そして、私に一つの約束を提示した。
「……いいだろう。だが、今すぐは早い。お前が十二歳になったらだ」
「十二歳……」
「ああ。それまでの二年間、この書斎にあるエルフの基礎魔法と歴史を、完全に自分のものにすると誓え。それができれば、俺も認めよう。お前が、異質の知識を正しく扱うだけの器になった、と」
それは、ただの足止めではなかった。
父が、私という存在を認め、その成長を信じてくれたからこその、「約束」。
「……はい! 約束します、お父さん!」
私のその、迷いのない返事に、父は初めて、満足げな笑みを浮かべた。
私の新しい目標が、また一つ、はっきりと定まった瞬間だった。
その日から、私の猛勉強が始まった。
父と交わした約束を果たすため、私は文字通り、寝る間も惜しんで書斎の知識を吸収していった。
魔法理論、古代史、錬金術の基礎――一度理屈を掴んでしまえば、そこからの吸収は早かった。どんな学問も、まるでパズルのピースがはまるかのように、私の頭の中に収まっていく。
そうして、あっという間に、二年という歳月が流れた。
私の十二歳の誕生日。
その日の午後、私は父の工房の前に立っていた。
約束の日だ。
少しだけ緊張しながら扉を開けると、父は「待っていたぞ」とでも言うように、静かにこちらを振り返った。
彼は何も言わずに、工房の鍵束から、一本の小さな銀の鍵を外す。
そして、それを私の手に、そっと握らせてくれた。
その日の午後、私は一人、書斎の奥に立っていた。
手の中には、父から託された、銀の鍵。
目の前には、私をずっと誘い続けていた、革張りの本棚。
鍵を、鍵穴に差し込み、ゆっくりと回す。
カチリ、と。
心地よい音と共に、ガラスの扉が開かれた。
私は、震える指で、その中の一冊を、そっと取り出した。
ざらりとした、革の感触。
ページをめくると、そこに並んでいたのは、見慣れたエルフの文字ではない、あの角張った「人間」の文字だった。
だが、今の私には、その文字が何を意味するのか、もう分かる。
それは、ある人間の国で書かれた、古い古い英雄の物語。
(……ここからだ)