報酬と小さな出会い
柔らかな光が、まぶたの裏を淡く染めていた。
意識はまだ深い眠りの底にあり、ただその光に手を引かれるように、少しずつ、心地よい浮遊感と共に浮かび上がっていく。
……温かい。
肩から足先までを包む、上質な毛布の重み。鼻腔をくすぐる、心を落ち着かせる薬草の香り。
(……ここは、宿屋の部屋じゃありませんね)
壁の向こうから聞こえる、静かな瓶の触れ合う音。乾いた薬草が、窓から差し込む風に揺れる微かな音。
ゆっくりと目を開ければ、見知らぬ木の天井が視界に映った。壁際には、束ねられた薬草がいくつも天井から吊るされ、朝の陽光を穏やかに透かしている。どうやら私は、セトさんの薬屋の一室で眠っていたらしい。
身体を起こそうとした瞬間、背中や脚の筋肉が、鈍く、しかしはっきりと抗議の声を上げた。
動かすたびに、熱い痛みが走る。昨夜、無理やり身体能力を引き上げた強化魔法の反動だ。
(……ふふ、少しだけ、やりすぎましたか)
魔術の扱いに自信があっても、この身体は正直だ。学院の机の上では決して学べなかった、確かな「代償」という名の痛みが、ここにはあった。
昨夜の出来事が、夢ではなかったことを証明するように、脳裏に蘇る。
あの神秘的な花。高熱にうなされる少女。そして、夜明けまでの、死に物狂いの疾走。
(……間に合ったのですね、私は)
ぎい、と静かに扉が開く。
現れたのは、木盆に湯気の立つスープを載せたセトさんだった。昨日までの陰を帯びた目は、すっかり穏やかな光を取り戻している。
「おお、お目覚めかね、リィアさん。無理はなさらず、そのまま」
「……セトさん。お孫さんは…?」
私の問いに、彼は心の底から嬉しそうに、深く刻まれた皺を目元に寄せた。
「ああ、おかげさまでな。熱は完全に引き、今はぐっすり眠っておるよ。本当に……感謝の言葉も見つからん」
木盆が、ベッド脇の小机に置かれる。滋養のある根菜と、わずかに苦味を含む薬草の、食欲をそそる良い香り。
「さあ、どうぞ。丸一日、眠り通しだったからの。まずはこれを腹に入れてくだされ」
「……一日、まるまる、ですか」
思った以上に、私の身体は限界だったらしい。
差し出された木のスプーンを受け取り、私はゆっくりとスープを口に運んだ。
柔らかく煮込まれた野菜の甘みと、薬草のほのかな苦味。それが舌の上で優しくほどけ、喉を通って胃の奥へと落ちていく。そこから、じんわりと全身に温もりが広がっていくようだった。
「……ふぅ。とても、美味しいです。体の芯まで染みていきますね」
「薬草師の意地での。効き目は保証する」
彼の目は、昨日までの切羽詰まった色を完全に失い、代わりに、大切なものを取り戻した安堵に満ちていた。
皿が空になると、セトさんは懐から依頼書とインク壺を取り出した。
「これに、サインを頼む。依頼達成の証明になる。ギルドに持って行けば、すぐに報酬が受け取れるじゃろう」
羊皮紙に、震えるが丁寧な筆致で――“我が命の恩人に、心からの感謝を”――と添えられているのを見て、私の胸が少しだけ温かくなった。
サインを渡し終えたセトさんが、今度はカウンターの下から小さな木箱を取り出す。
蓋を開けると、透明な硝子瓶が三本。瓶の中で揺れる青い液体は、光を受けるたびに微かにきらめいた。
「これは、わしからの礼じゃ。今わしが作れる、最高品質の魔力回復薬。あんたさんのような方が、肝心な場面で魔力切れを起こしては、わしが寝覚めが悪いからの」
私は一本を手に取り、光に透かす。液面の向こうで揺れる光は、夜明け前の静かな湖面のようだった。
「……素晴らしい贈り物ですね。ありがたく使わせていただきます」
その時、奥の部屋の扉が、軋みを上げて小さく開いた。
小さな影が、ぱたぱたと可愛らしい足音を立てて、こちらを覗いている。
寝間着姿の少女――まだ顔色は少しだけ青白いが、その大きな瞳は、子供らしい純粋な好奇心で、まっすぐに私を見つめていた。
「……おじいちゃん?」
「リリ! もう起きて大丈夫なのか?」
セトさんが慌てて駆け寄る。
「うん……なんだか、いい匂いがしたから」
少女――リリちゃんは、セトさんの背中から半分だけ顔を出し、じっと私を見た。やがて、不思議そうに小首を傾げる。
「……お姉ちゃん、だあれ? もしかして、森の妖精さん?」
その、あまりにも唐突で、純粋な言葉。私は一瞬だけ、何と答えるべきか迷ってしまった。
だが、答えるよりも早く、セトさんが彼女の前に膝をついた。
「このお姉ちゃんがな、リリの病気を治す、すごいお薬を持ってきてくれたんだ。命の恩人なんだよ」
「……いのちの、おんじん?」
難しい言葉の意味は分からなくとも、大切な人だということは察したのだろう。
リリちゃんは、おずおずとセトさんの背後から出てくると、私のベッドのそばまでやってきて、マントの裾を小さな手できゅっとつまんだ。
そして、満開の花のような笑顔で、私を見上げる。
「……ありがとう、妖精さん」
その笑顔は、銀貨の山よりも、どんな宝石よりも、温かくて、そして価値のあるものに思えた。
「元気になってよかったですね、リリちゃん」
私はしゃがみ込み、彼女の頭をそっと撫でる。柔らかな髪が、指の間を心地よくすり抜けていった。
薬屋を出ると、街はすっかり昼の光に包まれていた。
行き交う商人、露店の呼び声、香ばしい焼きパンの匂い。その活気ある喧騒の中を抜け、私はギルドへと向かった。
昼下がりのギルドは、朝とはまた違う熱気に満ちている。
その中を抜け、受付カウンターへ向かうと、サラさんが私の姿に気づいて、驚いたように眉を上げた。
「なんだい、リィア。もう戻ってきたのかい。まさか、諦め――」
その言葉は、私がカウンターの上に置いた一枚の依頼書で、ぴたりと途切れた。
羊皮紙の依頼主欄には、セトさんの署名と、短いけれど心のこもった感謝の文が、確かに記されている。
サラさんは目を瞬き、私と依頼書を何度も見比べた。
「……あんた、嘘でしょ。本当に、達成したのかい?」
その声が、近くの耳にも届いたのだろう。
「おい、あれ月雫草の依頼じゃねえか?」「一週間も誰も手を付けなかったやつだろ」「マジかよ、あの新人エルフが……?」
周囲の冒険者たちから、驚きと信じられないといった色のざわめきが波のように広がっていく。
私はそのざわめきを横目に、にっこりと微笑んだ。
「報酬をお願いします、サラさん」
サラさんは、数拍の沈黙の後、破顔した。
「……はっ! やっぱりあんた、最高に面白いね!」
彼女は奥の金庫から、銀貨の詰まった革袋を取り出す。
「約束の銀貨二十枚。ギルドの手数料を引いて十八枚だ。確かに数えな」
袋を受け取ると、手のひらにずしりとした重みが伝わる。初めての依頼の、初めての報酬。
だが、サラさんはそれだけでは終わらせなかった。
「それと――」
彼女は私の石のプレートを取り、魔道具の上に置いて何やら操作をする。淡い光が瞬き、短く澄んだ音が鳴った。
「今回の依頼は、緊急扱いで難易度も高かった。それに、あんたの根性も気に入ったからね。特別に、貢献ポイントをたんまり上乗せしておいたよ」
サラさんは、悪戯っぽくニヤリと笑うと、一枚の新しい、鉄製のプレートを私に差し出した。
「おめでとう、新人。これであんたは今日から、ただの石ころ(ストーン)じゃない。『アイアン』ランクの冒険者だ!」
受け取った鉄のプレートは、石よりも冷たく、滑らかだった。
それを指先でなぞりながら、私は一つ、静かに息をつく。
ギルドの喧騒の中、そのプレートは私の掌で、小さく、しかし確かな重みを持って輝いていた。
私の冒険は、まだ始まったばかりだ。
初めての依頼完了です!!
ランクアップ早くない?と思った方もいるかもしれませんが、意外とストーン→鉄はすぐランクアップします。
通常の依頼なら三回程度こなせば……って感じです。




