小さな命の灯
夜の森を、私は駆けていた。
腰の革袋の中で、月雫草がほのかに揺れ、優しい光を放っている。重さはほとんどない。だが、その意味は、一つの命にも等しい重さを持っていた。
(夜が明けますね。……あまり時間は残されていません)
月雫草の魔力は、月の光の下でこそ、その真価を発揮する。夜明けまでに届けなければ、この奇跡の花はただの美しい植物に戻ってしまう。それは、リリという少女の命の灯火が、尽きることを意味していた。
最短ルートは、来た道を戻ること。つまり――あのゴブリンのキャンプを、再び突破する必要がある。
判断に、迷いはなかった。
気配を完全に消し、影から影へと進む。やがて、前方にかすかな焚き火の光と、がなり声が聞こえてきた。
行きよりも、明らかに警戒が強い。数匹の見張りが、苛立ったように周囲を見回していた。私の仕掛けた閃光石に、相当頭を悩ませたのだろう。
(……これは、そのまま静かに通り抜けるのは無理そうですね)
一度足を止め、迂回ルートを探ろうとした、その瞬間だった。
私の気配ではない。風に乗って運ばれてきた、微かな血の匂いを嗅ぎつけ、見張りの一匹が、ぴたりとこちらを振り向いた。ロックリザードとの戦いで付着した、微量の返り血。その痕跡を消しきれていなかったのだ。
目が、合った。
「ギギッ! テキ! シンニュウシャ!」
甲高い警戒音が静かな森に響き渡り、キャンプにいたゴブリンたちが一斉に起き上がる。
逃げても、森での速さ比べでは分が悪い。囲まれる前に――叩く!
私は、躊躇なく月鋼の剣を抜き放った。漆黒の刃が、月光を鈍く返す。
「――身体活性」
魔力が全身を巡り、思考と身体能力が数段階引き上げられる。
最初に突進してきた一体が振り下ろした錆びた剣を、紙一重でかわし、すれ違いざまにその首を刎ねる。
返り血を浴びる前に、身を翻して二匹目の背後を取り、心臓を正確に貫いた。悲鳴が上がる暇すら、与えない。
「ギィィアアア!」
仲間が二匹、一瞬で屠られたのを見て、残りのゴブリンたちが狂乱したように襲いかかってくる。
だが、今の私の目には、その動きはあまりにも遅く、そして直線的に見えた。
(一体ずつ、確実に)
私は踊るように、その凶刃の嵐の中を駆け抜ける。
剣で受け流し、体勢を崩したところを蹴り飛ばし、生まれた隙にもう一体を仕留める。
それは、学院でセラフィーナさんと何度も繰り返した模擬戦の動きそのものだった。彼女の炎を避けるためのステップが、今、私の命を繋いでいる。
数分後。焚き火の周囲には、私以外に立つものはいなくなっていた。
足元には、ゴブリンたちが遺した小さな魔石がいくつか転がっている。
私はそれらを素早く回収すると、荒い息を整える間もなく、再び森を駆け出した。
(……感傷に浸っている暇は、ありません)
東の空が、ほんのりと白み始めていた。
間に合わせる。必ず。
夜の森を駆け抜け、アークライトの城門が見えたのは、夜明けまで残りわずかという頃だった。
肺の奥まで冷たい空気が流れ込み、焼けるように痛い。革袋の重みが、私の使命を絶えず思い出させる。
門番をしていたグラムさんは、血と泥に汚れた私の姿を見て、絶句していた。
「お、おい、嬢ちゃん……生きてたのか……」
「ええ、今のところは。緊急の用件です、通してください」
有無を言わさぬ私の気迫に、彼は黙って門を開けてくれた。
南通りへ向かう。朝靄の中、石畳は湿り気を帯び、私の荒い息遣いだけが響いていた。
目的の薬屋『囁きの薬瓶』の扉は、まだ固く閉ざされている。
私は躊躇なく、その扉を強く叩いた。
数秒の沈黙の後、奥から慌ただしい足音。鍵が外れる音がして、扉が半分だけ開いた。
現れたのは、昨日よりもさらにやつれた顔のセトさんだった。目の下には深い隈が刻まれ、その衣服は皺だらけ。徹夜で看病を続けていたのだろう。
「お嬢さん……まさか、本当に……?」
その声は、かすかに震えていた。
「ええ。約束の品です。間に合いましたよ」
私は革袋を取り出し、彼の手に押し付けた。袋の口から溢れた月雫草の銀色の光が、薄暗い室内を奇跡のように照らし出す。
「……本物だ……! 本当に、月雫草だ……!」
セトさんは震える指で花を確かめ、涙をこぼしながら顔を上げた。
「すぐに調合する! さあ、中へ入ってくれ!」
奥の部屋には、小さなベッドに孫娘のリリちゃんが横たわっていた。
頬は赤く上気し、呼吸は浅く、苦しそうだ。時折、影のような痣が肌に浮かんでは消える。
セトさんは手早く乳鉢に花を入れ、石杵で潰していく。花弁が砕けるたび、銀色の微粒子がふわりと舞い、周囲を淡く染めた。
だが――。
「セトさん、待って」
私の視線は、乳鉢の中で揺らぐ液体に注がれていた。
「マナが、暴れています。あなたの疲労と焦りが、薬の力を乱している。このままでは、効力が半減してしまいます」
「な、なんだと……!?」
「貸してください。あなたの手では、もう限界です」
私は、呆然とするセトさんの隣に立ち、乳鉢にそっと手をかざした。そして、私の持つ治癒と強化の魔力を、静かに、そして丁寧に流し込む。
二つの性質を併せ持つ私のマナは、荒れる波をなだめるように薬の中へと溶け込み、不安定だった銀色の光を、満月のように穏やかで、力強い輝きへと安定させていく。
「……お嬢さん、あんたは、一体……」
「お話は、後にしましょう。今は、彼女が最優先です」
セトさんは、完成した薬を匙にすくい、少女の唇へと運んだ。
こくり、と。銀色の液体が、小さな喉を通っていく。
するとどうだろう。燃えるように赤かった肌の色がすっと引き、不気味な痣が淡く、淡く消えていく。苦しげだった呼吸も、穏やかな寝息へと変わっていった。
「……熱が……下がっていく……!」
セトさんは、その場に膝から崩れ落ち、嗚咽を漏らした。
背中を丸め、子どものようにしゃくり上げながら、何度も、何度も「ありがとう」と繰り返す。
私は壁に背を預け、その光景を静かに見つめていた。
張り詰めていた意識の糸が、ぷつりと切れる。全身から、急激に力が抜けていく。
(……良かった。……間に、合った……)
視界が、ゆっくりと霞んでいく。音が、遠ざかる。
最後に耳に届いたのは、セトさんの涙に濡れた、温かい感謝の声だけだった。




