月下の森
重く閉ざされる城門の音が、背後で鈍く響いた。
あれはただの門の音じゃない。街という安全圏から切り離され、全く別の世界に放り出されたことを告げる、一種の儀式のような響きだ。
振り返れば、温かな光も人々の声も、すべて分厚い闇に呑まれて消えていた。
(……さて。ここからは、私の世界の時間ですね)
見上げれば、赤と青の二つの月が並んで輝き、森の木々を幽かに青白く照らし出している。
昼間とは、まるで別物だ。葉擦れの音、獣の遠吠え、全てが妙に生々しく、鮮やかに耳へ届く。
気配が多い。そのほとんどは、私という異物を値踏みする、野生の視線。
だが、不思議と心は落ち着いていた。混沌とした人間の街より、ルールが明確なこの森の方が、私にはずっと性に合っている。
私は月光を頼りにセトさんの地図を一度だけ確認し、すぐに懐へしまった。
今の私には、もっと確かな道標がある。
(……このマナの流れ。街の中とは比べ物にならないほど、濃く、澄み切っている)
目を閉じ、意識を研ぎ澄ます。
無数の生命が発するざわめきの中に、一本だけ、ひときわ清浄な小川のようなマナの流れを見つけた。おそらく、これが「静寂の泉」から放たれるもの。
私はそれを道標に、森の闇を駆けた。学院で叩き込まれた静音歩法は、木の根も落ち葉も踏み潰さず、まるで影のように私を運んでくれる。
だが、不意にその清流に、インクを垂らしたような嫌な濁りが混じった。
ぞわりと背筋を走る悪寒。私は反射的に近くの巨岩の影へと身を隠した。
数秒後、闇の奥から、短い悲鳴が聞こえた。小動物の、最後の声。
(……来ます)
月明かりの下に現れたのは、五頭の黒い獣。
狼に似ているが、一回りも二回りも大きい。目は血のように赤く爛々と輝き、そのうち一頭が、血に濡れた兎らしきものを咥えている。
(シャドウハウンド……音もなく影を渡り、群れで狩りを行う夜の魔物。学院の資料で読みましたね)
一匹なら問題ない。だが、五匹は厄介だ。
戦えば無駄に体力を削るだけでなく、血の匂いが他の魔物まで呼び寄せかねない。
(ここは、やり過ごすのが最善手。合理的判断です)
群れは、私の進む方向――泉の方角へと走り去っていく。やはり、あの泉は魔物を引き寄せる性質があるらしい。
完全に気配が遠ざかるまで息を潜め、私は再び森の奥へと進み始めた。緊張で額を伝う汗が、やけに冷たく感じられた。
警戒レベルを最大に引き上げながら進むと、泉から放たれるマナはより濃く、力強くなる。
だが同時に、森は不気味なほど静まり返っていった。虫の声も、獣の気配も、全てが途絶えている。
(……静かすぎる。シャドウハウンドの群れが近くにいるせいだけではないですね。もっと、格上の……この森の生態系の頂点に立つ存在が、近くにいる証拠です)
私は無意識に、月鋼の剣の柄へ指を掛けていた。
――その時、前方に、揺れる明かりが見えた。
焚き火の光、肉の焼ける匂い、そして、下卑た笑い声。
(……ゴブリンですか。行商の方たちの言っていた通りですね)
茂みに身を伏せて覗くと、粗末な見張り台とテント、八匹のゴブリンが焚き火を囲んでいた。泉へ続く唯一の道を、完全に塞いでいる。
(一対一ならともかく、この数と正面からやり合うのは愚策。……ええ、少しだけ実験と洒落込みましょうか)
私は小石を一つ拾い上げ、マナを流し込む。内部の構造を不安定化させ、衝撃を与えると光と音を発生させる――即席の「閃光石」だ。錬金術の、ほんの初歩的な応用。
それを、焚き火とは反対側の茂みへ、力一杯投げ込んだ。
――閃光。
続く轟音が、静かな森を震わせた。
「ギッ!?」
「ギギィィッ!」
ゴブリンたちは悲鳴を上げ、武器を手に、何事かと光の方向へ突進していく。
(……今、ですね)
私は風のように駆け抜け、影から影へと身を移す。背後で何やら怒声が上がったが、もう遅い。私はとっくに、森の闇に紛れていた。
鼻をくすぐる、清らかなマナの香り。
澄んだ水のせせらぎ。そして、木々の間から覗く、神秘的な青白い光――。
最後の茂みを抜けた瞬間、私は息を呑んだ。
そこは、森の中にぽっかりと開いた円形の広場。地面は月光を浴びた苔が、まるで宝石のようにきらめいている。
中央には、鏡のように静かな泉。その水面には、赤と青の二つの月が、重なり合うようにして映り込んでいた。
(すごい……。ここだけ、まるで別の世界のようです)
そして、見つけた。
水面から反射した月光が、一点に集中する場所。そこに、銀色に輝く半透明な花びらを持つ花が、ゆるやかに光を点滅させながら、数輪だけ咲いていた。
(月雫草……なんて、綺麗……)
本の挿絵では到底伝わらない、息を呑むほどの神秘。
だが、私がその聖域へ足を踏み出す前に――空気が、凍った。
泉の対岸、森の影の奥から、それは音もなく現れた。
豹に似た、しなやかな四肢。月光を浴びた銀色の毛並みは、揺らめくたびに、まるで星屑が零れるように輝く。瞳は、泉の水面と同じ、どこまでも深い蒼。
威嚇も咆哮もせず、ただ静かに、まっすぐに、私を見ていた。
(……これは、駄目ですね。格が、違いすぎる)
ロックリザードとは比較にならない。シャドウハウンドの群れが、子供の遊びに見えるほどの圧倒的な存在感。
その瞳には、紛れもない知性が宿っていた。あれは、この森の主。この聖域の、守り神だ。
剣を抜けば、その瞬間に私の命は終わるだろう。
私は静かに膝をつき、月鋼の剣を地面へと置いた。そして、胸の前で手を合わせ、深く頭を下げる。
敵意がないこと、そして、この聖域の主への敬意を示すために。
セトさんの顔が、脳裏に浮かぶ。高熱にうなされる、小さな孫娘の姿を想像する。
(助けたい。救いたいのです。どうか、お許しください)
その、私の心からの祈りを、マナに乗せて目の前の守り神へと、静かに流した。
長い、長い沈黙。
聞こえるのは、泉の水音と、風が葉を揺らす音だけ。
やがて、恐る恐る顔を上げる。
銀色の獣はまだそこにいたが、その蒼い瞳から、刺すような警戒の色が薄れていた。
喉の奥で、小さく「くるる」と鳴らすと、ゆるやかに横へと身を引き――道を開けてくれた。
(……許して、いただけたのですね)
私はゆっくりと立ち上がり、月雫草へと近づく。花を五本、傷つけないよう慎重に摘み取り、セトさんから託された特製の革袋へと収める。
魔力が逃げないよう、袋の口を固く結んだ。
もう一度、泉と、そして今はもう姿が見えない銀色の獣へ、深く一礼する。
踵を返すと、私はアークライトへの道を、全力で駆け出した。
革袋の重みが、一つの命を救うための、確かな希望として私の掌に伝わってくる。
夜明けは、もうすぐそこだ。
この世界には、知性のある獣と魔物の二種類がいます。
泉の守り神さんは前者ですね。




