薬師の祈り
「……ごめんください」
私が声を掛けると、カウンターの奥で薬草をすり潰していた老人の肩が、びくりと小さく跳ねた。
振り返った顔には深い皺が刻まれ、いかにも年季の入った職人といった風貌。だが、その目の奥には、隠しようのない疲労と、何かに追い詰められたような焦りの色が滲んでいた。
「おお……お客さんかね。すまんねぇ、ちょっと今、手が離せなくてな。薬草の買い取りかい? 残念だが、今は少し……」
まるで言い訳するように、老人は申し訳なさそうに首を竦める。
「いいえ。冒険者ギルドからの依頼で参りました。リィアと申します」
私は静かに、カウンターの上にギルドの依頼書を置いた。羊皮紙に押されたギルドの印を見て、老人の目がわずかに見開かれる。
「……まさか。この依頼を、引き受けてくれる者が現れるとは……」
信じられない、という顔で、彼は私と依頼書を何度も見比べた。
「お嬢さん……一人で、これを? あれは、この街の腕利きの連中でさえ、何人もが首を振ってきた代物なんだが」
「ええ、承知の上です。その前に、詳しい事情を伺ってもよろしいですか。依頼書には書かれていないことが、たくさんあるように見受けられますので」
私の迷いのない、まっすぐな視線。老人は短く息を吐くと、店の奥の椅子を指さした。
「……立ち話もなんだ。座ってくれ」
粗末だが、丁寧に磨かれた木椅子に腰を下ろすと、老人は温かい薬草茶を差し出してくれた。湯気と共に、心を落ち着かせる柔らかな香りが立ち上る。
「わしはセト。見ての通り、この店で細々とやっている者だ」
名乗ると、セトさんは静かに、そして絞り出すように続けた。
「依頼書に“緊急”と書かせてもらったのは、他でもない。……孫娘のためなんだ」
七歳になるリリという孫娘が、七日前から“影追い熱”という奇妙な病にうなされているという。夜になると高熱が出て、肌に影のような痣が浮かび上がる。朝には熱は引くが、痣は少しずつ大きくなり、確実に彼女の命を蝕んでいく。
(影追い熱……学院の書物にも、父の手記にもなかった病名ですね。呪いに近い性質を持つ、風土病の一種でしょうか。だとしたら、単純な治癒魔法では効果は薄い……)
「古い文献を調べて、唯一効くとされる薬草を見つけたんじゃ……それが、『月雫草』だ」
セトさんは、皺の刻まれた両手で顔を覆った。
「じゃが、あの子の熱はもう、わしの作る薬では抑えきれん。残された時間は……もう、ほとんどないんじゃ」
それは、ただの採取依頼ではなかった。一つの、消えかけそうな命が掛かっている。
私の胸の中に、静かだが、確かな熱が灯った。
「……その薬草が咲く場所に、心当たりは?」
私の声は静かだが、芯は揺らいでいない。セトさんはわずかに顔を上げ、確かめるように私を見た。
「……本当に、行ってくれるのかね……?」
「はい。依頼を受けた以上、やり遂げます。必ず、持ち帰ります」
私の力強い返事に、セトさんは長く、震える息を吐いた。そして、古びた地図を広げる。
「東の森の奥、『静寂の泉』と呼ばれる場所だ。月の光が水面に反射するような、清浄な場所にしか咲かんと言われとる」
「ですが、注意しておくれ。どういうわけか、夜になるとその泉には魔物が集まってくる。腕の立つ冒険者でさえ、夜の森は避けるほどだ」
「魔物の種類は?」
「……分からん。ただ、音もなく獲物を狩る、夜行性の魔物だとだけ……」
「情報、感謝します」
私は頷くと、セトさんから特別な素材で作られたという、小さな採取袋を受け取った。
店を出ると、私はギルドへと踵を返した。どうしても、一つだけ確認しておきたいことがあったからだ。
ギルドに戻ると、サラさんは呆れたような、しかしどこか「やっぱりな」と言いたげな顔で私を迎えた。
「あんた、本当にあの依頼を受けたのかい。で、今度はなんだい?」
「一つだけ、教えてください。どうして、あれほど危険な依頼が、ストーンランクの掲示板に?」
私の問いに、サラさんは面倒そうに頭を掻いた。
「ギルドの規則さ。依頼主のセト爺さんが依頼したのは、あくまで『薬草の採取』だ。『魔物の討伐』じゃない。だから、ギルドとしては危険度を示す警告はできても、討伐依頼みたいにランクをシルバー以上に設定することはできないのさ。……ベテランの連中が誰も受けないのは、そういうことだよ。割に合わない、危険なだけの依頼だからね」
(なるほど。規則の穴、ですか。そして、セトさんには高ランクの討伐依頼を出すだけのお金もない……)
「……よく分かりました。ありがとうございます、サラさん」
「……あんた、まさか本当に行く気かい? 死ぬよ?」
「ええ。待っている人がいますので」
私がにっこりと微笑むと、サラさんは深いため息をつき、そして「……勝手にしな」とだけ呟いた。
宿屋に戻った私は、旅の鞄をベッドに広げ、装備を一つひとつ点検していく。
食料、水筒、ミエルが作ってくれた傷薬、そして――父が託してくれた月鋼の剣。
(静寂の泉、音もなく獲物を狩る夜行性の魔物……)
ロックリザードとの戦いは、まだ幸運だった。だが、今回は違う。こちらから、危険の巣に踏み込むのだ。
自然と、剣を握る手に力がこもる。
だが、迷いはなかった。セトさんのあの顔を見た以上、私に退くという選択肢はない。
動きやすさを優先し、装備は最小限に絞った。剣と採取袋、傷薬をいくつか腰のポーチに収める。
部屋を出ると、カウンターの向こうから女将さんが心配そうに声を掛けてきた。
「お嬢ちゃん、こんな時間にどこへ行くんだい?」
「少し、夜の森に散歩へ。朝までには戻りますから、心配なさらないでください」
私が優雅に微笑むと、女将さんは「散歩って……!」と、さらに顔を青くしていた。
夜のアークライトは、昼間とはまるで別の街だった。
人影はまばらで、静寂が石畳を支配している。
正門へ急ぐと、巨大な木の門はすでに固く閉ざされていた。
「待て、何者だ!」
松明の光が門の上から差し込み、昼間見かけた衛兵、グラムさんの声が降ってきた。
「ストーンランクの冒険者、リィアです。ギルドの緊急依頼で、街の外へ出ます」
私は、依頼書と冒険者プレートを高く掲げた。
グラムさんは、依頼書に押された印を見ると、忌々しそうに舌打ちした。
「……サラの印か。なら仕方ねえが……嬢ちゃん、本気か? 森の夜は洒落にならん。本当に死ぬかもしれねえぞ。それでも行くのか?」
私は、門の上にいる二人の目を、真っ直ぐに見返した。
「はい。待っている人がいますので」
私の短い一言に込められた決意。グラムさんはしばらく黙って私を見つめ、やて乱暴に頭を掻いた。
「……ったく、勝手にしろ! だが、朝日が昇るまで門は二度と開けねえからな! 戻るなら、それまでだ!」
「感謝します」
重い音を立てて、門が人一人通れるだけ開く。
その隙間を抜けた瞬間、背後で再び門が閉まり、街の温かい光が完全に遮断された。
深い闇と、森の濃密な匂いが、私を包み込む。
見上げれば、赤と青、二つの月が、これから始まる夜の狩りの舞台を、静かに照らし出していた。




