冒険者の集う場所
アークライトの正門をくぐった瞬間、私は情報の奔流に飲み込まれた。
人、人、人。そして、馬のいななき、荷車の軋む音、鍛冶屋の槌音、商人たちの怒鳴り声に近い呼び込み。世界樹の都の、澄んだ空気と穏やかな時間しか知らなかった私にとって、それはもはや暴力的なまでの活気だった。
(……すごい。人間って、こんなにたくさん喋って、たくさん動いて、たくさん生きているんですね)
耳に飛び込む雑多な言葉の洪水に、私は思わず小さく笑みを浮かべた。
幼い頃、父の書斎で人間の言語を必死に学んだ甲斐があった。あの発音まで記録された魔法具がなければ、今ごろきっと、宇宙人を見るような目で見られていたことだろう。
人の流れを邪魔しないように歩きながら、道沿いに並ぶ建物の看板を一つひとつ見て回る。
木彫りの板には剣や盾、パンやジョッキなど、誰にでも分かる素朴な絵が彫られていた。
(なるほど、絵で伝えるんですね。……ということは、この街では文字を読めない人も多い、と。合理的で、理に適っています)
そんな些細な発見すら、私の知的好奇心をくすぐってやまない。
しばらく歩き、大通りから少しだけ外れた場所に、落ち着いた雰囲気の宿が目に入った。二階建てのこぢんまりとした造りで、過度な装飾はないけれど、窓辺に飾られた花が綺麗に手入れされている。軒先の看板には、風を読んで向きを変える鳥の絵。
「『風見鶏の宿』、ですか。……うん、ここにしましょう」
扉を押し開けると、からん、と軽やかな鐘の音が私を迎えてくれた。
中は掃除が行き届いており、磨かれた木のテーブルが数席と、奥にこぢんまりとしたカウンター。私の選択は、どうやら間違っていなかったようだ。
カウンターの向こうで、ふくよかで人の良さそうな女将さんが伝票を整理していたが、鐘の音に顔を上げ、私を見て――その動きが、完全に止まった。
「いらっしゃ……まぁ……!」
女将さんの目が、信じられないものを見るように大きく見開かれ、その視線が私の頭の先からつま先までを舐めるように往復する。
「あら、何か私の顔についていますか?」
私が悪戯っぽく小首を傾げると、彼女ははっと我に返ったように、慌ててカウンターから飛び出してきた。
「い、いいえ! とんでもない! こりゃまた……美しいエルフのお嬢さんとは珍しい。こんな辺境の街まで、一体どうなさったんだい!」
その勢いは、まるで孫娘の帰省を喜ぶお祖母ちゃんのようだ。
「旅の途中です。まずは一週間ほど、部屋をお借りしたいのですが」
「ああ、もちろんさ! どうぞどうぞ! 長旅でお疲れだろう、ゆっくりしておいき! 今、とびきり上等な部屋を用意させるからね!」
「お気遣い、ありがとうございます。ですが、お部屋はごく普通のもので結構ですよ」
私はにっこりと微笑み、懐から革袋を取り出す。
「一泊、食事付きで銀貨二枚。それで、よろしいですね?」
「……!」
私の言葉に、今度は女将さんが驚いたように目をぱちくりとさせた。相場を正確に知っていたことが、意外だったのだろう。
やがて、彼女は堪えきれないといった様子で、声を上げて笑った。
「はっはっは! こりゃ驚いた! 見た目はお姫様みてぇなのに、随分としっかりしてるんだねぇ。気に入ったよ! あいよ、一泊銀貨二枚だ!」
荷を部屋に置いた私は、最低限の武具と革袋だけを身につけ、再び街へと出ることにした。
女将さんに冒険者ギルドの場所を尋ねると、「大通りを真っ直ぐ行った先の、一番デカくてうるさい建物さ! でも、あそこは荒くれ者が多いからね、お嬢ちゃんはあんまり近づかない方が……」と、最後まで心配そうだった。
教えられた通りに進むと、すぐにそれと分かる建物が見えてきた。石と太い木材で造られた、砦のように頑丈な建物。入口の上部には、二本の剣が交差する紋章が掲げられている。
(……ふふ、なるほど。力こそ正義、みたいな顔をしていますね、この建物)
私はフードを深く被り直し、重厚な扉を押し開けた。
途端に、むわりとした熱気と、怒号のような喧騒が私を包み込む。
酒と汗、そして、わずかな血の匂い。広いホールでは、屈強な冒険者たちが昼間から大ジョッキを呷り、自慢話や下品な冗談を怒鳴り合っていた。
(ええ、想像通り、いえ、想像以上に『物語の中の酒場』ですね)
そんな喧騒を気にするでもなく、私はまっすぐに奥の受付カウンターへと歩み寄った。
そこには、赤毛をポニーテールに高く結んだ、快活そうな女性が座っていた。胸元の札には「受付嬢:サラ」とある。笑みを浮かべてはいるが、その目は獲物を値踏みするように鋭い。私のような新顔を、値踏みしているのが分かった。
サラは、面倒くさそうに私を一瞥した。
「あんた、新顔だね。用があるなら、フードくらい外しな。顔も見えない相手と話す趣味はないんだよ」
「……はい。失礼いたしました。これで、よろしいですか?」
私がフードを下ろした瞬間、あれほど騒がしかったホールの喧騒が、まるで嘘のように、ぴたりと静まり返った。
全ての視線が、私の元へと突き刺さる。
「……」
サラも、頬杖をついたまま、その切れ長の目を見開き、完全に固まっていた。
数秒の沈黙の後、どこかから「ヒュー」と感嘆の口笛が鳴り、それを合図に、先ほど以上のどよめきがホールに広がった。
サラは、はっと我に返ると、一つ大きな咳払いをして表情を整える。その耳が、ほんの少しだけ赤い。
「……で、何の用だい。まさか、こんなところに迷い込んだわけじゃないだろう?」
「路銀を稼ぎたいのです。ギルドへの登録は可能でしょうか」
私のどこまでも落ち着いた声に、サラの軽口が消えた。彼女は、私の瞳の奥にある覚悟を、正確に読み取ったようだった。
「……本気かい。あんたみたいなのが、こんな場所でやっていけるとは思えないけどね。登録には、実力を示すか、金貨一枚を払うかだ。どうする?」
私は黙って、革袋から一つの小袋を取り出し、カウンターの上に置いた。中からころりと転がり出たのは、ロックリザードの魔石だった。
「……はっ!?」
サラの目が、驚きに見開かれる。
「ロックリザードの魔石……しかもこの純度と大きさ。……嘘だろ。まさか、あんたが一人でこれを?」
「ええ。成り行きですが、少しだけ手こずりました」
私のその言葉に、周りで聞き耳を立てていた冒険者たちが、さらに大きくどよめいた。
サラは、魔石と私の顔をしばらく見比べた後、やがて、猛禽類のような獰猛な笑みを浮かべた。
「……はっ! 面白いじゃないか! 気に入ったよ、あんた!」
彼女は魔石を鑑定用の皿に仕舞い込むと、羊皮紙と羽ペンをこちらに差し出した。
「登録料は、その石で十分だ。特別だよ。名前と、得意なことを書きな」
『名前:リィア・フェンリエル』
『得意分野:治癒魔法、強化魔法、錬金術』
私が書き終えるのを見て、サラが満足げに受理印を押す。
「これで、私も冒険者ですね」
「ああ、ようこそ、ろくでなしの巣窟へ」
その瞬間、背後の席から、早速げすな声が飛んできた。
「なぁ、そこのエルフの嬢ちゃん! 依頼が終わったら、俺と一杯どうだ?」
私は振り返らず、穏やかな、しかしどこまでも涼やかな声で答える。
「あら、結構ですよ。でも、まずは依頼をこなして、懐を温めてからにしてくださいね。その方が、お酒もずっと美味しいでしょう?」
私のその切り返しに、からかった男は一瞬きょとんとし、それから周りの仲間たちに囃し立てられて、照れくさそうに頭を掻いた。
場の空気が、ほんの少しだけ和む。
サラは、その様子を面白そうに眺めながら、真新しい銅製の登録証を私に差し出した。
「はいよ、新人。これで今日からあんたも、アークライトの冒険者ギルドの一員だ。そのカードは、あんたの命の次に大事なもんだからね。肌身離さず持っときな」
「ありがとうございます、サラさん。……思っていたより、賑やかなところなんですね。お酒と、威勢のいい笑い声で満ちていて」
私がそう言って微笑むと、サラは少しだけ意外そうな顔をして、そして肩をすくめた。
「ま、明日死ぬかもしれない連中の集まりだからね。笑えるときに笑っとくのさ」
「いい考えですね。では、私も少しずつ、ここに馴染めるといいのですが」
私は登録証をそっと懐にしまうと、再び好奇と驚嘆の視線を一身に浴びながら、ギルドの依頼掲示板へと向かった。
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