城門をくぐって
小高い丘の上で、私は足を止めた。
西の空を焼くような壮大な夕日。その光を背に、遥か彼方の地平線に、大地に根を張るように広がる街並みの影が見える。家々の屋根から立ち上る白い煙が、夕暮れの風にゆるやかに流れていく。
「……あれが、アークライト。人間の街……」
エレーナさんの話に聞いた活気あふれる商業都市とは、ずいぶん雰囲気が違いそうですね。でも、これもまた、人間の世界の本当の姿。私の胸は、静かな期待で高鳴っていた。
やがて陽が完全に沈むと、街の中にぽつり、ぽつりと橙色の灯りが浮かび始める。まるで、地上に生まれたもう一つの星座のようだ。
(綺麗……。世界樹の都とは、全く違う種類の光ですね)
故郷の光が、魔法によって灯される清らかで静かなものだとしたら、あれはきっと、人の営みそのものが放つ、温かくて少しだけ不揃いな光。
私は、その光景を目に焼き付けながら、最後の野営の支度を始めた。これが、本当の意味での「一人旅」最後の夜になるだろう。
夜明け前の薄明かりと共に目を覚ました私は、手早く荷をまとめて丘を下った。
街へと続く最後の道を歩くほどに、その輪郭が鮮明になっていく。
石と太い丸太で無骨に築かれた壁には、飾り気というものが一切ない。長い年月の風雨に晒され、あるいは魔物との戦いでついたであろう無数の傷跡が、この街が生き抜いてきた歴史を雄弁に物語っていた。
(……なるほど。要塞というより、辺境の『砦』ですね。合理的で、質実剛健。私は、嫌いじゃありませんよ)
やがて見えてきた正門の前には、日の出と同時に開門を待つ人々で、すでに長い列ができていた。
新鮮な野菜を山と積んだ荷馬車を引く農夫。大きな背嚢を背負い、抜け目のない顔つきをした行商人。そして、使い込まれた革鎧を身に纏い、冗談を言い合いながらもその目は鋭い光を宿している、冒険者らしき一団……。
(すごい……! これが、エレーナさんの言っていた『混沌』ですか。人種も、職業も、目的も違う人々が、こうして一つの場所に集まっている)
その、あまりにもエルフの社会とは違う、雑多で、力強いエネルギーに、私は思わず目を細めた。
門の脇では、欠伸を噛み殺しながらも、鋭い視線を周囲に配る衛兵たちの会話が耳に入る。
「おい、昨日のゴブリンの死体、もう片付いたか?」
「ああ、朝一番でギルドの連中がな。まったく、最近は物騒でかなわん。門番の俺たちも、いつ死んでもおかしくねぇぜ」
(……やはり、あの行商の方たちの話は本当でしたか。この活気の裏には、常に危険が潜んでいる、と)
列はゆっくりと進み、やがて私の番が来た。
日に焼けた、熊のように厳つい衛兵が、分厚い台帳から目を上げ、退屈そうに声をかける。
「次、止まれ。フードを外せ。名前と、この街に来た目的を言え」
「はい、分かりました」
私はゆっくりと、被っていた深緑のマントのフードを下ろした。
朝日に照らされ、私の銀糸のような髪がきらりと光る。
「――っ!?」
それまで面倒そうに私を見ていた衛兵の表情が、面白いほど綺麗に固まった。
隣にいた、まだ若い衛兵も、あんぐりと口を開けて、瞬きすら忘れている。周囲のざわめきが、ほんの一瞬だけ、遠くなった気がした。
私は、そんな二人の反応を少し楽しみながら、悪戯っぽく微笑んでみせる。
「リィア・フェンリエルと申します。見ての通り、ただの旅の者ですよ。この街の歴史や文化を、少しだけ学ばせていただきたくて」
「……あ、ああ……」
熊のような衛兵――グラムさんが、我に返ったようにどもる。隣の若い衛兵が、慌てて肘で彼をつついた。
「な、名前はリィア……目的は、ええと、旅と、勉強……だな。……そ、その腰の剣はなんだ!?」
「これは護身用です。昨夜も、少しだけやんちゃな魔物が出ましたから。この子のおかげで、今朝も無事に目を覚ますことができました」
私が、愛剣の柄を優しく撫でながら言うと、衛兵たちの顔がさらに引きつった。
「な、何か、不備でも?」
私が小首を傾げて尋ねると、グラムさんはぶんぶんと音が聞こえそうな勢いで手を振った。
「い、いや! 問題はない! だが、その……身分を証明するものはあるか?」
「これしかありませんが……申し訳ありません、おそらくお読みになれないかと」
私が差し出したのは、学院発行の身分証――もちろん、美しいエルフの文字で記されている。
若い衛兵がそれを覗き込み、案の定、首をかしげた。
「グラムさん、やっぱり読めません……」
「だろうな!」
グラムさんは、一つ大きな咳払いをすると、努めて事務的な声を作った。
「……よし。規則により、滞在税として銀貨一枚を支払え。それと、これが滞在許可証だ。街の中でトラブルを起こすなよ」
「はい、承知いたしました」
私が革袋から銀貨を一枚取り出し、彼の手のひらにそっと置く。その指先が、ほんの少しだけ触れた。
グラムさんの肩が、びくりと大きく跳ねる。
もう、面白くて笑ってしまいそうだ。
「……よ、よし、通っていい!」
木札を受け取り、一礼して門をくぐる。背後で、若い衛兵のため息混じりの声が聞こえた。
「……行っちゃいましたね。……本物のエルフ、初めて見ました……。というか、あんな綺麗な人、生まれて初めて見ました……」
「うるさい! さっさと仕事に戻れ! 次の奴を通さんか!」
そんなやり取りを背中で聞きながら、私は人間の街、アークライトへと、最初の――そして、大きな一歩を踏み出した。
目の前には、石畳の道と、活気と、そして私のまだ知らない、たくさんの「面白い」が広がっていた。




